厳島神社の脇に建てられている「萩藩新地会所址」の碑です。
昭和38年(1963年)に建てられました。
平成13年(2001年)に現在地に移転されたそうですが、
それ以前に建てられた場所も近くだったようです。
萩藩新地会所は、萩本藩の出先機関です。
1719年頃に、萩本藩は、
その領地であった下関菊川楢崎の地の一部と、
長府藩家老・細川宮内の給料地であった
下関今浦地先とを交換し、
その地に萩本藩の御用所と倉庫を設置しました。
その後、1762年より、入江であった現在の下関市新地の
埋立工事が着手されるに伴い、御用所を当地に移しました。
更に、米会所、八幡改方も設置され、
以前ご紹介した「馬関越荷方役所跡」の地に設けられた
越荷方役所の役人も詰めていたそうです。
1864年12月15日深夜、晋作は下関長府・功山寺で
長州藩俗論派打倒のための兵を挙げました。
「功山寺挙兵」「回天義挙」と呼ばれるものです。
その時、雪の中、晋作が最初に襲撃したのが新地会所でした。
晋作の狙いは食料や金銭でした。
新地会所では、馬関総奉行・根来上総(親祐)が降伏し、
血を見ることはありませんでしたが、
長府藩より情報を得ていた会所側は、
事前に食料・金銭を移動させており、
晋作の思い通りにはいかなかったようです。
なお、同情した上総が若干の金銭を与えはしたそうです。
なお、新地会所の跡地には、かつては、山口町長や、
山口県立教育博物館(現・山口県立山口博物館)の
初代館長を務めた、作間久吉(鴻東)の撰文による
「高杉晋作挙兵」の碑があったそうですが、現在はありません。
「萩藩新地会所址」の碑の場所はこちらです。