閑院宮載仁親王ゆかりの石碑が
下関市綾羅木の中山神社にあるそうだとお話ししました。
で、新たに掲載した家系図にも、閑院宮載仁親王を記しております。
中山神社には、確かに過去、
「閑院宮殿下御手植松」と記された碑がありました。
「あるそうだ」という言い回しをしておりましたが、
実は、数年前、ねりえは確かにこの目で見た記憶があります。
が、先日ねりえが中山神社を訪れた時、
その碑はありませんでした。
で、社務所でお訪ねしたところ、
やはり、以前は確かに
「閑院宮殿下御手植松」と記された碑があったそうです。
しかし、木が枯れたみたいで、碑も撤去されたのだそうです。
その節は、教えていただき、ありがとうございました。
さて、「閑院宮殿下御手植松」の碑は
昭和4年(1929年)に建てられたものでした。
当時の閑院宮家当主は、閑院宮載仁親王です。
前述した家系図もご参照いただければと思いますが、
閑院宮家は、江戸時代に誕生した世襲親王家。
第2代当主・閑院宮典仁親王の子・師仁(兼仁)親王が
天皇に即位し、光格天皇となっており、
その血統が現在の天皇陛下まで続いています。
ちなみに、典仁親王には、90年忌の明治17年(1884年)に
「慶光天皇」と「太上天皇」の称号が追尊されています。
光格天皇は、父・典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとしましたが、
江戸幕府の老中・松平定信がそれに反対し、成立しませんでした。
「尊号一件(尊号事件)」と呼ばれる事件です。
その後、明治時代に入り、明治天皇の高祖父である典仁親王に
追尊されることになったのですが、
尊号一件の時に朝廷側の忠心として動いた人物に
中山忠光の高祖父・中山愛親がおり、
追尊を発議した人物に、忠光の父・中山忠能がいます。
さて、話を閑院宮家に戻しますが、
閑院宮家は、孝明天皇のはとこに当たる第5代当主・愛仁親王が、
1842年に子がないまま死亡したため、
その母・鷹司吉子が当主格となっていました。
それを、明治5年(1872年)、遠戚である伏見宮邦家親王の
第16王子・載仁親王(幼名・易宮)が継承します。
この時、わずか満6歳でした。
その後、載仁親王は、陸軍軍人として、日清・日露戦争に参加。
大正時代には元帥陸軍大将となります。
昭和6年(1931年)から昭和15年(1940年)までは
参謀総長を務め、「髭の参謀総長」と呼ばれました。
また、貴族院創設から死去まで、
54年6箇月の間、貴族院議員を務めましたが、
これは参議院を含めても最長の記録であり、
衆議院を含めても史上3位の記録です。
ただし、貴族院皇族議員は実際の活動はしていません。
終戦前の、昭和20年(1945年)に死亡。
大日本帝国憲法の下での最後の国葬となりました。
なお、載仁親王は、昭和天皇の妻である香淳皇后の
祖父・久邇宮朝彦親王の弟に当たりますが、
その父・伏見宮邦家親王には32人もの子がおり、
戦後に皇籍離脱した11宮家の当主は、
全て邦家親王の子孫だったそうです
(ただし、東伏見宮家当主・依仁親王は
離脱時以前に死亡しています)。
中山神社の場所はこちらです。