以前 、長府にあった土肥山に建てられていた、
五重石塔をご紹介し、
その際に、「土肥山」の名の由来は、
壇ノ浦の戦いの後、
源氏方の土肥次郎実平が、総追捕使として、
平家の残党の追捕などのため、長府の地に居住し、
この山に城を構えていたことであることをご説明しました。
その城は「土肥山城」と呼ばれていたそうです。
さて、土肥山は宅地開発で消滅しましたが、
住宅街の中に「土肥山公園」という名の公園があります。
その中に、「土肥次郎実平之城趾」と記された碑があります。
先日ご紹介した五重石塔と並んで
土肥山の山頂にあったそうですが、
宅地開発の際に移設されたのだそうです。
大正11年(1922年)に、
長府の篤志家・桂弥一により建立されたものなのだそうです。
場所はこちら です。