MIYUKIです。
先日プールに行った時に、小学校高学年くらいの二人の女の子たちのお喋りが耳に入ってきました。
もう一人の子に
「私、文通している訳ではないからね」
とかなんとか聞こえてきました。
この「文通」という言葉に、懐かしさと同時に違和感を覚えました。
今どきのSNS時代の子供の口から、「文通」とう古風な言葉が出てきたことへの違和感・・
思えば、私が中学生くらいの時にこの文通が流行っていて、特に女子は多くの子がしていたという印象です。
お洒落な便せんや封筒を買い揃えるのも楽しみでした。
私も、友達の紹介などで2人位の同学年の子と文通をしていましたが、ある時、どうしてそうなったかの経緯はもう覚えてはいませんが、沖縄の子と文通をする事になりました。
それまでの手紙の内容といううと、好きな歌手の話しやクラブの話し、勉強の話しなど他愛ないものが中心でしたが、しかしこの沖縄の子は全く違ったのです。
当時の沖縄はまだ日本に返還される前で、アメリカの政権下に置かれていたのです。
当時はパスポートが必要だし、お金もドルでした。道路も左側通行だった時代です。
私はだいたい沖縄がこのような状況になっている事自体余り知らず、恥ずかしながら、沖縄の歴史をちゃんと知ったのは、かなり後になってからでした。
確かにテレビでは、「沖縄返還運動」とか「沖縄返還問題」という言葉が飛び交っていたのは知っていました。
正直、その時の私の中学生活の中に、「沖縄問題」は位置づいいませんでした。
少しでも今住んでいる所から遠い町に住んでいる人と文通をする事に憧れ、北の北海道と未知の最南端の沖縄の子と文通が出来る事に、気持ちはワクワクドキドキと、期待が最高潮に達していました。
沖縄から初めて手紙が来て、期待に胸を膨らませながら封を開けました。
数行読んで、私の眼が点になってしまった事は、今でもハッキリと覚えています。
最北の町と最南端の町を結ぶ「文通」にロマンと期待を膨らませていた私は、読むなり、エ?・・とも、ウ!・・ともつかない声を漏れ出していました。
今までサクッと軽~くやっていた文通とはえらいかけ離れた内容。
当時の日本の総理大臣は佐藤栄作で、テレビでよく見ていたから、勿論顔と名前くらいは知っていました・・が・・私の中ではそれ以上のものではありませんでした。
沖縄の中学生の手紙の行間からあふれてくる言葉、「サトウ総理は・・・」 時には「サトウエイサクは・・・」「返還は」「本土は」
沖縄返還問題を中心に沖縄の抱えている社会問題をどう考えるか、というような内容でした。
この人本当に中学生?
何かの手違いで、大人から手紙が届いた?
なに、なに、私に何を求めているの?
書いている内容の余りにも高いレベルに、理解不能・・・
同じ日本人、同じ中学生であるはずなのに、この感覚の違いはなんなのか?
そうだ、この問題を掘り下げてみよう、と思える人に届けられるべきだった手紙は、全く場違いな人間の元に届いてしまった悲劇。
それを横目で見ていた父親が、その手紙を読み、
「お~なかなかしっかりした子で、凄いね、勉強になるね、フムフム」
返事を書こうにも、便せんを前にペンが全く動こうとしません。
頭は凍りつき、額からは冷汗が・・・取り繕うとする言葉さえも思いつかない状態。
楽し、可笑し、で続けていた文通が、こうも苦しく、悩ましくなった・・・
何をどのように書いて返事をしたのかは全く覚えてはいませんが、あっという間にその文通が終わりを告げたのは言うまでもありません。
無知であった私と彼女の間には、埋めようのない隙間があり過ぎました。
あれから半世紀以上も時は過ぎましたが、この間に2回沖縄旅行をしました。
当時のあの「文通事件」を思い出しながら、観光地を巡り、延々と続く米軍基地を見、ひめゆり記念資料館を見学しました。
今、もしあの時の彼女に会って話が出来たら、多分今ならじっくりと聞く事が出来、色々な質問も出来たかもしれない、と思いました。
旅行中に名護市の海岸に行きましたが、何かの調査ということで、海岸に入っていく事が出来ませんでした。見事に広がる真っ青な海を、遠くから見ました。
それからしばらくして、その調査が現在強行されている、普天間基地から名護市へ移転されるための調査だったことが分かりました。
あれほど綺麗な海を埋め立ててしまう…いたたまれない気持ちになりました。
、

