不道徳教育 擁護できないものを擁護する | One of 泡沫書評ブログ

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不道徳教育/ブロック.W

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講談社プラスアルファから文庫版が出ているのに、大判のソフトカバー版のほうを買ってしまった。なんということだ。800円の値段の差はわたしの「無知」の代償だとして我慢するとしても、本棚のスペースがなくなることだけは残念である。

本書はウォルター・ブロックの『Defending The Undefendable (注:リンク先PDF) 』(1991)を橘玲氏が訳したものだが、あとがきで断っている通り、「翻訳」ではなく「超訳」である。つまり訳者である橘氏自身が原著の論旨をそのままにしつつも、大胆な日本風アレンジが施されている。そのため、「2ちゃんねらー」だの「ホリエモン」だのがぼんぼん出てきて、無防備に読むと「ブロックさんって、日本のこと詳しいんだな」などと思ってしまうので気をつける必要がある(思うわけがないかw)。

わたしは「自称」リバタリアンだが、正直に告白すると、リバタリアニズムのバイブルであるノージック『アナーキー・国家・ユートピア』も持っていないし、ハイエク『隷属への道』やフリードマン『資本主義と自由』も未だ積読状態のままだ。教義も知らないでリバタリアンを自称するとは専門家からすれば失笑モノだろうが、わたしの直観ではリバタリアニズムというのはものすごく単純明快な政治思想であるように思う。つまり、特にその由来や成り立ちを知らなくとも、ある一つの原則を認識するだけでいつでも誰でもリバタリアンになれる。その原則とは、すなわち

「個人の自由を最大限に尊重し、何人たりとも他人の自由を損なう権利をもたない」

ということである。

といってもやはり学問的精密さを欠くので、興味を持たれた向きはめいめいで確認していただきたいのだが、重要なのは、ここでいう「自由」というのが、われわれが一般にイメージする「自由」の概念と違い、消極的な自由のことを指しているということであろう。つまり、リバタリアンにとっての自由とは、何かをするときにやりたいようにできる、というようなニュアンスではなく、「誰からも何も強制されない」という自由なのである。

残念ながら日本においては、一般に「お上」の意識が強烈過ぎて、どちらかといえばその対極にある「パターナリズム」や「社会主義」のほうが受け入れやすい概念なのだろう。あるいはベストセラーとなった例の本にあるような「コミュリタニアニズム」のほうが近いのかもしれない。知れば知るほど、この国では受け入れがたい概念だなと思わざるを得ない。


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橘玲氏が和製リバタリアンの伝道師(?)であることを知ったのはずいぶん後のことなので、本書はつい最近その存在を知ったのだが、これは「リバタリアンとは何か」がものすごく端的にわかる(わかった気になれる)最高の入門書かもしれない。以前、入門書として森村進『自由はどこまで可能か』(講談社現代新書)を通読したことがあるが、あまりの学問的難解さに頭の整理が追い付かなかった。しかし本書は多少強引ではあるが、身近な例に引き寄せて「自由」とは何かを具体的に描写しているし、場合によっては本文を読まなくても橘氏の書いたまえがき(たったの40ページ足らず!)を読むだけでリバタリアニズムを俯瞰することができる。

それにしても、先ほどの言説と矛盾するようだが、リバタリアニズムとはなんと難しい概念だろうと思わざるを得ない。リバタリアニズムという思想はその性質上、フリーランスエンジニアや自営業者、作家、投資家、金融マンなどにその支持者が多い気がするのだが、かれらは自分の足で立つことに慣れている、いや、むしろ自分の足で自由に立ちたいからこそ、リバタリアニズム的になるのだろう。たとえば、以前森博嗣氏のエッセイをご紹介したことがあったが、まさにかれなどはリバタリアニズムの体現者と言えるだろうし、mojix氏がいみじくも評するように、ホリエモンなどの「市場原理主義者」はまさにリバタリアンといえるだろう。自分が自由にしたいために、他の人の自由も最大限に尊重する。だから、お願いだから、人の自由を侵害するのだけはやめてくれ―――。だが、これと同じことを、凡人が主張できるだろうか? 自由を主張するときに一抹の不安を感じることはないだろうか? 自由を手に入れる代わりに、その自由の重さを自ら背負うだけの覚悟があると言えるだろうか?


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自由という概念を考えるときに、わたしが思い出すのは『新世紀エヴァンゲリオン』の、TVシリーズの最終話だ。あらゆることから自由になったとき、人は不安になる。そこに、地面の存在を認識し、地上に立つという不自由さを受け入れることで、人は初めて安心するということが描かれていたと思う。人は本質的に、束縛によってしか安定した自我を得られないのではないか? そんなことを考えると、合理的であればある程、不安を感じ、誰かに自分の運命を決定してもらいたいという誘惑(つまり、パターナリズム)にあらがうことは、思った以上に難しいのかもしれない。

ノーラン・チャート - モジログ

橘玲「日本がリバタリアン国家になったら」 - モジログ

(ところで、文庫の方のタイトルが『不道徳な経済学』となっているのは、『ヤバい経済学』などに便乗したマーケティング上の理由だろう。言い訳ではないが、どうりで書名で検索してもヒットしないわけだ…)

不道徳な経済学──擁護できないものを擁護する (講談社プラスアルファ文庫)/ウォルター・ブロック

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自由はどこまで可能か=リバタリアニズム入門 (講談社現代新書)/森村 進

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