- 昭和東京ものがたり〈1〉 (日経ビジネス人文庫)/山本 七平
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本屋で偶然見つけてびっくりして買ってしまった。今更、なぜ山本先生の原稿が文庫化されるのであろう。単行本の初出は1990年ということだそうだ。あとがきに長男良樹氏の解説があるが、それによると1988年から89年までに雑誌連載したものを収録した本だという。まさに山本氏最晩年に書かれたエッセイといえる。「1巻」ということは2巻が出るということなのだろう。どういう読者層が読むのだろか。
山本氏は1991年12月に、70歳を目前にすい臓がんで亡くなられた。したがって本書は入院しながら書いたものなのかもしれない。1988~89年と言えば当時日本はバブルからその崩壊へと向かうエポックの時代である。わたしも生まれていてドラクエ3とかドラクエ4をやっていた時期だ。当時わたしは小学校だか中学校だかにいっているガキだったが、氏とこの世を生きた時期が数年だけでもオーバラップしていたというのが今更ながら不思議な感じがする。
それはさておき、本書は著者最晩年のエッセイである。簡単にいえば著者の幼少期の思い出話である。そう聞くと陳腐に聞こえるかもしれないが、読み進めていくと、こうした「日常を記す」という類の本が意外に貴重な「文献」であることに気づくだろう。今ではブログやSNSが隆盛し、日常を記すというのは誰もがやっていることだが、昔のことはその話が俗になればなるほど書物に残されない傾向にある。というのも、昔は文字を書くというのは大抵が知識階層に限られており、そうした人がこのような日常風景を軽いタッチで描くということはほとんどなかったからだ。
とくに著者の著述を知っている人はわかると思うが、山本氏は普通は気付かないような細かいところに執着する癖がある(と、少なくとも読者には感じられる)ので、やたらとこまごまと書くのだ。苦手な人は「理屈っぽくてとてもついていけない」と思うかもしれないが、実際、とても子どもの記憶とはは思えないほど、微細な点まで詳細に書き記している。歴史に詳しい人はよく「昔の人はトイレをどうしていたとかが意外にわからない」と言ったりするが、まさにそうした「トイレの話」のような当時の東京の庶民の生活や考え方、日常風景が活き活きと描かれているこの本は、今だからこそ新鮮に映るに違いない。
本書のもう一つの焦眉は、戦争を命からがら生き延び、復員後に高度経済成長を経験した大正時代の老人が、かつて貧しかった時代の日本を語っているという点であろう。だから氏は安易に昔は良かったとかいう話はしないし、今(つまり、昭和62年ごろ)の子供たちに向かって、「最近の若い者は」的な発言もあまりしない。(ときどき「最近の若い者は」というニュアンスで書かれている部分もあるが、これは仕方ないだろう) したがって当時の世相や時代背景を考えると相当に進歩的な立ち位置といえる。もっとも、氏は生まれついてのクリスチャン、父親は内村鑑三の一番弟子というくらいだから、現在の水準としても相当なアウトサイダーには違いないので、そういう意味で「多様性」というものへの付き合い方には慣れていたのかもしれないが。
今が一番不幸な時代だと思っている人は、歴史が繰り返すということや、何事も相対化してとらえるといういいきっかけになるに違いない。本書は、たとえば日本はかつて格差のない国だったが、小泉改革によって格差が広がったなどの議論に何の疑問も抱かないような人々、いわば同時代性の中でしか議論できない人たちに対する大きな示唆となるだろう。80年前は相当に貧しかったということがわかるだけでも、読む意味は十分にあるだろう。