政治さえまともになれば日本は圧倒的にアジアで独り勝ちできる - 金融日記
藤沢Kazuさんがまた誤解を招くようなことをw
というか完全に釣りエントリだと思うので、釣られてはいけない。
(当たり前のことを言っているだけなのだが、わざとアンチの神経を逆なでして挑発するような言い方なので、「釣り記事」というべきだろう。)
わたしもかつて、こういう人たちの主張に大反対していたから、Kazuさんに反論するアンチの気持がよくわかる。Kazuさんに限らず、池田先生然り、ホリエモン然り、頭のいい人たちが主張する規制緩和は、要するにわれわれのようなにアタマが悪く付加価値の低い人間が、フリーな競争によってどんどん淘汰され、適正な報酬に落ち着くべきであるというのを、自ら認めないといけないということだから、あたかも人格を否定されるような気持ちになるわけだ。
「オマエは日本に居て規制に守られているからいまの収入が得られているだけなんだ。自由競争下で財の価値が適正化されれば、オマエの生みだした付加価値からすれば年収2~300万なんぞもらいすぎてるくらいだ。」
と言われているような気になるのではないだろうか。
だから、血相を変えて「それは非人道的だ」とか「人の気持ちがわからない人」とか、口をきわめて批判するわけだ。色々理屈をつけるが要するにそういうことなのだろう。「人間的でない」とか、「日本のやり方に合わない」とか言う人たちは大抵そうなのではないだろうか?
だが残念なことにKazuさんらが主張することは事実なのだろう。国や国境といったしがらみがない世界なら、単純労働によって生みだされる付加価値がミャンマーやバングラディシュで働く人と同じであれば、やはり同じくらいの報酬でないとおかしいのだ。そうなってないなら、どこかに市場の歪みがあって、既得権益として何かに守られているのだ。
このへんはわたしの拙い表現よりも以下を参照してもらった方がいいかもしれない。
本文中引用させてもらうと、
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さらに、5年後に「より強い供給サイド」を持つ日本が増やす雇用とは、必ずしも“弱者を含む国民全員”ではない。その“高付加価値の供給“に参加できるのは、おそらく労働者のうちの一部にすぎないだろう。しかも“世界で勝てる企業”になった日本企業が雇いたいと考えるのは「優秀な日本人」でさえなく「優秀な人」である。
では、雇用されない人はどうなるのか?
「底辺の仕事でもらえる報酬で足りない部分は、セーフティネットで救えばよい」というのが、規制緩和論者(第二の道の主張者)の意見なんだろう。つまり、稼ぐ力のある人が稼ぎ、稼ぐ能力のない人は福祉で生きていく社会、を彼等は想定している。(“彼等”とか書いてますが、ちきりんも“第二の道”しか解はないと思ってます。)
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まあ、これがエッセンスだろう。本来は、GDPを底上げするために、さまざまな規制を撤廃して、「上のほう」にいる人たちに色々な分野で引っ張っていってもらわないといけないし、イノベーション(革命的な技術や発想によって社会や経済の仕組みに変革をもたらすこと)を起こしてもらわないと困るのはわれわれのような層なのだ。そうやって競争力をつけた経済の下で、われわれ低付加価値労働者層はそのおこぼれにあずかる(雇用を創出してもらう)か、最低限の生活を(たとえばベーシックインカムなどで)保障してもらえればそれでよしとしなければならないわけだ。
だからイノベーションをもたらす”成金”にはむしろ積極的に称賛を贈らないといけないし、付加価値を生み出した人にはインセンティブのためにもドンドン金銭的なボーナスを支払うべきなのだろう。また逆に、付加価値を生み出していないのなら、身の丈にあった生活をするべきだし、最低限の所得保障をもらえれば食うには困らないわけだから、「金持ち優遇」とかいって妬んだりするのは建設的ではないだろう。また、われわれのような層もやり方を工夫すれば、もしかしたら新たな観点で付加価値の創出ができるかもしれないので、そういうことにもっとトライしやすい環境にしていかなければならない。
・・・と、いうような世界になったとしても、わたしのような人間が幸せになれるかどうかはまた別の話だ。主観的な幸福は、相対的な経済発展などとは本質的には無関係なのだから。仮にわたしの予想が正しいとすれば、リバタリアンの主張する「新自由主義社会」になろうが、このまま「大きな政府」路線でいこうが、グローバリズムが否応なく進む以上、能力のない人にとってはどちらも経済的にはあまり差のない未来になる気がしている。みんなで平等に貧しくなるか、わたしを含む大部分の人間が貧しくなるかのどちらかであり、どちらに転んでもあまり関係がないのかもね。