ハイエク 知識社会の自由主義 | One of 泡沫書評ブログ

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ハイエク 知識社会の自由主義 (PHP新書)/池田 信夫
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池田さんの本なので、とりあえず読まねばならぬと思い、会社近くの本屋で入手した。


経済学の素人には敷居が高い


・・・池田先生、正直、難しすぎてよくわからないです。


わたしのような情報弱者は、既存の大マスコミによる報道によって、「新自由主義」や「フリードマン」という「記号」にノイズが入りすぎているため、経済学者にとっては当然の流れが頭の中で整理できない。そこへきてさらに「メンガー」「「ポパー」「ウィトゲンシュタイン」とか言われてもますます混乱するだけである。「マルクス」「ケインズ」すら、ちゃんとした系譜としてとらえられていないのに、この上さらに初見の学者の名前をさも自明のように語られても、サラリーマンは困惑するだけだ。


読み終わった後はなんとなくわかるが、あとから書評としてまとめようとするとわからなくなる本の典型といえる。この本は、おそらく経済学部の学生などの専門家予備軍が、アダム・スミスから現在までに至る経済学の歴史を俯瞰するための手引きのように使うのが一番なのではなだろうか。


経済学は「政治システム」の上流設計


それにしても世の中には自称も含めて多くの経済学者が居るが、これほど人によって主張が異なる学問も珍しい。だから、素人にとっては誰が本物で誰が偽物なのか判断することが非常に困難で、たいへん困るのである。あれほどスゴイと思っていたケインズも、実はルーズベルトがケインズの論文を読んで「ニュー・ディール」を行った事実はなく、The Great Depressionから立ち直ったのは第二次大戦の特需によるものだというから、もう何がなんだかさっぱりである。


わたしの思うところでは、経済学は純粋に数理モデルなので、モデルによって導かれる結論には誤りはないが、その前提条件の設定や数式に加える変数の有無によって描き出す世界が違うのではないかと思う。したがって、経済学は目指すべき未来に対し、どのように社会構造を作るべきか、という「論理設計」を行う言語であって、それが事後的に現実と合っていたとか間違っていたとか言って役に立たないというのは、ナンセンスのような気がしてきた。


一番の大上段に来るべきなのは政治、つまり「この国はどうあるべきか」という「要件定義」であって、経済学はその要件を満たすために「ではどうやってシステムを設計するか」を記述するという「設計」といえるのではないか。こう考えていくと、さしずめ政策は「実装」であり「コーディング」であるわけで、ここを官僚をはじめとする事務官が担当するというわけだ。(設計書通りにコーディングをしないのはプログラマによくあることだろう。)


こう考えると経済学というものがそこそこ理解できるのだが、専門家の方はどう思われるだろうか? まあ、こういう思いつきは素人だから放言できることではある(笑)。


資本主義のもろさ


ところで、頭の弱いわたしにも唯一理解できたのが、本文167-168ページにある次の一節である。


「―――利己的な行動を「合理的行動」と称して肯定し、独占欲に「財産権」という名前をつけて中核に置く資本主義の基礎は、意外に脆いかもしれない。ハイエクもシュンペーターも、資本主義が崩壊するとすれば、その原因はこうした倫理的な弱さだと考えていた―――」


こういうのを読むと、池田先生は決して一般に悪意をもって言うところの「新自由主義者」でもなんでもないと思うのだが、どうなのだろうか。結局、人間のもつ「不公平感」という社会的な歪みはどのような社会になってもなくなることはないと、よくよくわかった上でのあの発言だと思うのだが・・・


みんなで公平に貧しくなる国と、大きな格差は生まれてもいいからみんながそこそこ暮らせる国と、どちらがいいか? と問われれば、わたしなどは間違いなく後者だと思うが、もしかしたら本質的な幸福は前者の国にこそあるのかもしれない。