母の誕生日、改めて思うこと | 魂の占い師 ネプテューンのブログ

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今日、3月24日は亡き母の誕生日。
存命であれば104歳。
母の人生は波乱万丈でした。
もちろん母に限らず、あの時代に生まれた方々は
多かれ少なかれ波乱万丈だったと
思いますが…何しろ戦争がありましたから。

母は1920年(大正9年)東京の麻布本村町(今の南麻布)に
生まれました。

 


4歳の頃の母と祖父母

 

幼少期は父(私の祖父)の駐在先である上海で過ごし、
帰国後は女子学習院に入学。その後再び父の転勤に伴い渡米。
L.A.やサンフランシスコ、ニューヨークなどで
多感な青春時代を過ごしました。
語学は英語はもちろんフランス語も学び、
スポーツも万能。特にテニスは地区大会で優勝するほど。
また絵やピアノも上手でした。何しろ負けず嫌いでしたから。



1937年 サンフランシスコにて
右から二番目が祖父。その左が母(17歳)。
左端は当時の市長:ロッシ氏


しかし、そのような充実した日々も長くは続きませんでした。
日米関係が緊張し始めた1940年、急きょ母親(私の祖母)と
帰国することになったのです。
後に母や祖父母から聞いた話ですが、
戦前のカリフォルニア在住の邦人の間には、かなり楽観的な
雰囲気が漂っていたそうです。
「まさか、日本がアメリカと戦うはずはない。
何とかなるだろう」と。
厳しい見方をしていた東海岸在住の邦人とは
かなりの温度差があったそうです。
祖父の話によれば、日本がドイツ、イタリアと
三国同盟を結んだ日(1940年9月27日)を境に、
アメリカ市民が日本人を見る目がイッキに
厳しさを増したとのことです。
つまり「日本もファシストの仲間入り」と見られたわけです。

結局、アメリカに残った祖父は「スパイ容疑」で
FBIに逮捕され、日系米人達と共にサンタフェの
収容所に入れられてしまったのです。
帰国した母は戦時中は神奈川県の片瀬、その後空襲が
激しくなってからは長野県の小諸に疎開し、
そこで終戦を迎えました。
戦後、母がアメリカ人弁護士である父と結婚したのは、
やはり母にとってはアメリカ人との生活の方が
自分らしく生きられると感じたからでしょう。
生まれついての牡羊座そのもののストレートな性格が、
アメリカで育つことによりさらにシャープさを増して
いましたから、当時の日本の男性ではとても相手に
ならなかったに違いありません。


母の愛用した切子グラス


今、私が母や祖父母の人生を思い返す時、
改めて感じること、それは
「戦争のような大きな波の中では
個人の運命など簡単に呑み込まれてしまう」と
言うことです。
つまり狂った人たちに政治を任せると、
国民全員に被害が及ぶと言うこと。

戦争が終わってから、もう80年近くになりますが、
私たちはこのことを忘れてしまってはならないと
改めて思うのです。

最後に、母に感謝の気持ちを述べます。
「私を産んでくれてありがとう!」


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モスクワのテロ、本当に悲しい事件です。
背後に何者がいるのか…
それは今後、明らかになっていくでしょうが、
(そうでなければなりませんが)
市民を標的にしたテロは
絶対に許せません。