「良心はエゴ」という気づきは、

瞑想がもたらした。


無心になれば良心も消えてしまう。

その程度のものでしかない。


何故、この事に長い間、

気づかなかったのだろう?


良心は絶対に大切なものと信じ込んで

いたからなのだ。


人に親切にしなさい。

正直でありなさい。

誠実でありなさい。


絶対的な真実だと思っていた。


しかし、無心の状態になれば、

全て消えていく観念でしかない。


親切にしなさいと教えられれば、真面目な人ほど親切にしなければならないと思い、自己犠牲を払ってしまう。


正直でありなさいと、真面目な人に教えれば、嘘をつく事に罪悪感を感じてしまう。嘘も方便が利用できなくなる。


結果的に生き辛くなってしまう。


子供の頃から植え付けられた道徳。これが災いする。良心を持っても良いが、無心になれば消えてしまう程度のものだと認識する必要があると思う。


困っている人がいれば助けてあげなさい。


助けるのも道ではあるが、少し様子を見るのも道である。何故なら助けてあげれば、その人の成長の機会を奪う事にもなるから。


特にHSPは良心という言葉には注意した方が良い。「何とかしてあげなきゃ」と思えば思うほど自己犠牲を払う結末になってしまう。

良心もエゴであるという気づきは、自分に天変地異が起こったほどの心境の変化をもたらした。


思いやりも、ずっと大切なものだと信じ込んでいたけど、そうでも無い。


いや、思いやりの視点が変わったというべきか。


その人の為に何かしてあげようという思いやりは必要ないとなってしまった。


見ざる聞かざる言わざるという思いやりの方が良いのだなぁという変化だ。


五体満足な人間に対して過保護に扱う必要も無いよ。できる事は何でも自分でした方が体のためにも良いし。


社会で植え付けられた価値観がどんどん消えていく。かなり心に負担がかかっていた事が明確に分かる。


人間とはこうあるべきなんて理想論はどうでも良い。そんなものはドンドン捨てて行った方が心は軽くなる。

毎日、ニュースで様々な問題が取り座されている。問題が無限に山積みになっている。


以前、それらに反応していたが、

今はどうでも良いという感じだ。


自分がいくら社会問題を考えても、

何も変わらないからね。


江戸時代以前に比べれば、今は情報の

洪水だから。


記憶は定かでは無いが、平安時代の

一生の情報量が現在の一日に相当するらしい。


昔の人だったら、知る事も無かった事を

知りすぎている。まして、自分には

どうにもならない情報ばかり。


自分にできる事をやれば良いんだよ。

自分で解決できそうな問題だけ

対応したら良いんだよ。


それ以外はどうにもならないのだから。

人生、59年ほど生きてきた。

色んなタイプの人を見てきた。


自分にとって模範になる人もいれば、

反面教師になる人もいた。


腰が曲がってしまっても、畑仕事を

しているお婆ちゃん。


笑顔が素敵な人がいる。


苦労してきた人ほど笑顔が

素敵になるのだなぁと思う。


いや、苦労してきたから、

笑顔で紛らわすしか無いのかもしれない。


私は何歳で死ぬかは分からないけど、

できれば笑顔が素敵なお爺ちゃんに

なりたいもんだなぁ。


そして、額に汗をかきながら、

畑仕事を黙々とやっていたら良いなぁ。

人の役に立ちたい。

これは、ずっと大切な事だと思っていた。


人助けがしたい。人を救いたい。

とにかく、素晴らしい事だと信じていた。


しかし。


ある時、こういう気持ちもエゴなんだと

気づいた。ほんと急に閃いた。


人の役に立ちたいという事は、

言い換えると、人によく見られたいという

心理が裏で働いている。


人助けがしたい、人を救いたい。

その裏には承認欲求が隠れている。


良心もエゴなんだなぁと。


無我の境地になれば良心も消えてしまう。


この気づきが私にとって劇薬だった。

今まで余分なエネルギーを費やしていた。


赤ちゃんって可愛いよ。

でも、その本人は自分を可愛いとは思っていない。

他人が勝手に可愛いと思っているだけだ。


美しい花も人間が美しいと勝手に評価しているだけで、花は何も思っていない。


人の役に立ちたいと思わなくても、役に立っている時もあるし、役に立ちたいと行動しても、他人からありがた迷惑になる事もあるし。


人の役になんか意識して立つ必要は無いだろうと思う様になった。


そして、心は軽くなった。心が静寂になった。


しばらく、平凡な期間があったけど、

またまた、困難がやってきた。


簡単な問題を解いているのも飽きてきた。

手が耐えのある難問を解きたい。


そう思うのだろうなぁ。


また、この困難を乗り越えたら、

しばしの安楽が来るだろう。


登山家が新たな山を目指すような

感じだ。

リハビリの仕事を今も少ししている。

対象は80歳以上の高齢者ばかり。


個人差はあるが、老いの苦しみを訴える

方がいらして、返す言葉も無い。


若い時の様に動けなくなり、

そして、さらに動けなくなりつつある。


頭では仕方ない。老化に抗えないことは

分かっていても、納得はいかないんだ。



こんなはずじゃ無かった。



辛いねぇ。


私も来年は還暦だ。

老いを感じている。


特に短期記憶は悪くなったなぁと

感じている。


そして、脚力も低下しつつある。

しかし、私はかなりましかな。


生老病死について、20代から

考えてきた事だから、

自分が老いる事には抵抗は無い。


こんなはずじゃ無かったとは思わないが、

こうなるんだぁという事実を体験しているだけだ。


瞑想が大事だ。

瞑想を少しずつしてきたから、

老いに対して自然に向き合う事ができる。


まあ、自然に身を委ねていくだけだ。

無能無知な自分にできることなんて、

ほとんどない。


天地自然に感謝して生きるのみ。

悟りを開いたら全ての苦悩から解放されるかの様に思ってしまう。少なくとも私はそうなのかなぁと思っていた。


しかし、そうでは無い。


物理的肉体を持っている以上は苦悩が無くなるという訳にはいかない。動物としての本能を持った肉体に魂が宿っているのだから。


しかし、苦悩はあっても感情的になり、怒り狂うとかは無いし、他人に八つ当たりする事も無くなる。


苦悩は瞑想をして丹田に鎮めてしまうのみ。

姿勢を整えて重心が丹田に落ちれば、

煩悶苦悶は消えてしまう。



瞑想はやり方に囚われず、一般や数十秒でも良い。理想は瞑想しようとせずとも日常生活の中でも自然に行われるようになると良い。


昨日も、立位姿勢で姿勢を整えた途端、中心軸が通り思考停止状態に入った。


緊張と弛緩のグラディエーシだなぁ。

中心軸は刀ようでありなが、

緩むところは緩む。


老後の為にも瞑想は練習していた方が良いと

思う。


施設に入る事になっても瞑想すりゃ良い。

一人孤独の時間を楽しめる様に

しておくのが大事だろう。

言葉って便利な様で不便。

日常的な世間話程度には使えても、

奥深い事は伝わらない。


同じ様な体験を持つもの同士では

分かり合えるけど、

そうで無ければ全く伝わらない。


沈黙するしか無いんだ。


五感で感じている世界も違うし、

私の感じ取った世界は私だけのもの。

他人と共有はできない。


そういう意味で、みんな孤独。

生まれた時から死ぬまで孤独。


これは仕方ない。