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満月の夜が明け、目が覚めると

体の感覚が変わっていることに気づく。

 

体が再生している。

癒しが起こったようで美しくなっていた。

 

昨日、インドに着いて、あまりの暑さにぐったりで

かなり眠ったからだろうか。

皮膚が明らかに変わっていた。

さすが再生のさそり座満月。

 

ブログ記事を書いて、朝食へ。

まだ朝の瞑想は参加していない。

 

美しいプールを眺めながらひとりチャイを飲む。

プールでは、メディティティブ スイミングのグループが開かれていて

みんなの美しい泳ぎを見ていると

見ているだけで瞑想状態に入る。

 

とにかく見るものすべてが美しい。

 

 

13年前、海外一人旅を決意したとき、

候補に入っていたPuneのOSHOリゾート。

 

このタイミングで来ていることに不思議な感覚がある。

あのときは、OSHOのもとへ行くことに少しの抵抗があった。

OSHOの言葉は大好きだった。

自分の中の体験で培ってきた言葉と結びつくものばかりで

絶対ヤバイと思った。(のめりこみそうで・笑)

マスターは持たないと決めていたので、程よいところでつきあっていたという感じだろうか。

 

OSHOを知ったのは、姉が突然死した後。

姉の突然死、叔父の焼身自殺と立て続き、

わたしだけでなく、家族それぞれ

それまで信じていた何かがそれぞれの中で崩壊していった。

 

家族の多くがそれまでの仕事を辞めた。

ひとつにまとまっていた家族がそれぞれの生にシフトし始める。

そのころ、OSHOの言葉にも出会った。

 

OSHOの言葉は、強い。

 

わたしはまだ世界を知らない。

自分と同じ考えのフィールドではなく、違うフィールド、

いろいろな考え方(世界)を知りたかった。

 

そこでタイに行ったのが13年前。

 

13年前のもうひとつの選択が今実現していることに不思議な感覚があった。

人生は、遅すぎることもなければ、

タイミングを逃すこともない。

 

すべては、今ここにある。

その”時”を選ぶことも選ばないこともすべてが今ここにつながっている。

 

選ばないことも選ぶことも「決めている」ことに変わりない。

きっと、あのときわたしはインドへ来ることを決めていたんだと思う。

 

人生で「選択」することは、

選択されなかった何かに切なさを残すことがある。

残り香のように。

 

選択されなかった何かも、いつもともにある。

そんなことがあらためてリロードされる。

 

 

インドは、わたしにとって、へその緒のような場所のように感じる。

根源的な生命力、大地とのつながり、結びつきのある場所。

そして、「生」と「死」の場所。

 

もう一度、結びなおすことに抵抗があったんだと気づく。

母親との関係をどこか言い訳として残しておきたかったんだ。

今までは、それも許してきた。

けれど、いつの間にかそれが執着になったとき、

リリースはちゃんと訪れる。

 

今、新たな人生を迎えつつあり、

一点の曇りなくそこへ行くことにした。

 

今、トランシット木星が自分のネイタルの12ハウスに入っている。

13年前タイへ行ったときもそうだった。

1から12までのハウスを一巡りして、何かが終わってインドに来たようだ。

こだわってきた何かがほどけていく。

 

 

そんなことをぼんやりと考えているうちに

他の人たちも朝食にやってくる。朝の語らいのひととき。

 

GIRIの月星座がてんびん座ということで

月星座談議で盛り上がる。

 

滞在中に受けるプログラムやセッションの登録へ行き、

そのあと、青空の下のダンスメディテーションへ。

 

 

大理石の上、裸足で内側の源泉から体が動くポイントを探りながら

トランスの手前ギリギリで全開で踊る。

日も昇ってきて、暑さが増して汗が噴き出る。

大理石の上も日の当たる場所はとても熱い。

 

体が喜んでいる。

源泉とつながり、そのエナジーに体が動いていく感覚に涙があふれる。

 

インドの暑さ、大地とつながる感覚。

体全体が再生していく。

 

1時間ほど激しく踊り続ける。

 

そうだ、わたしは踊りたかったんだ。

 

 

 

つづく