Nentendo
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ディスクシステム

ディスクは子供にはカッコよく見えた

 フロッピー風のカートリッジに磁気テープが入ったディスク。これがファミコンでも使えるようになるのがディスクシステムだった。

 500円で書き換えできるとか、カセットと違って安く作れるとか、データの保存ができるとか、メリットは沢山あった。

 なにがきっかけでこれの購入に至ったのか覚えていない。あとマリオ2を買おうとした記憶はあるけど、実際に買ったかが不思議で、なぜかというとあまりプレイした記憶が無く、クリアした記憶も無いからである。

 

メデューサの見た目は微妙

 一緒に買ったのはパルテナの鏡だったと思う。そしてこれは12月発売なのでクリスマスに買ってもらったのだろう。ゼルダに興味はなかったが、謎の村雨城はやりたかった。しかし、なるべく新しいゲームがやりたくて、パルテナにした気がする。ちなみに、ゼルダの評判はとても良く、その後も任天堂を代表するシリーズの一つになったにも関わらず、村雨城は評判も悪く、その後も続編などは出ていない。

 パルテナの記憶は薄めで、あの画面半分を占めるボスキャラを弓矢でピシピシ攻撃した記憶があるのできっとクリアできたんじゃないだろうか?自分ができなくても、当時は兄が結構クリアしてた。あのスペランカーですら、何周かして真のエンディング見てた。

 

名作スポーツゲームが多かった

 ディスクは読み込みの遅さもあったが、バレーボールとかスマッシュピンポンとか、良いスポーツゲームも結構出てたのでかなりやった。友人のうちではアイスホッケーもよくやった。

 新鬼ヶ島や遊遊記なんかもちゃんと前後編解いたし、中山美穂のトキメキハイスクールもノーマルエンドは自分でクリアしたはず。

 ディスクは周りに持ってない友人も多かったが、書き換えという仕組みのおかげで週替りで色んなゲームができてよかった。実はスーファミにも同じ仕組みがあったけど、ローソンが近くになかったから、全く利用できなかった。

 あと、夢工場ドキドキパニックという名作もディスクで誕生し、アメリカではマリオ2に生まれ変わったりしたし、ディスクシステムがもたらしたものは結構大きかったと思う。

ファミリーコンピュータ

デジタルデビューの時

 幼少期の自分は、粘土で遊ぶのが好きだった。好きな物語のキャラクターを粘土細工で作り、実際の物語では描かれない話を想像して、演じさせるのが好きだった。手が常に油っぽく、食卓に粘土を置いて怒られることが多かった自分。だが、ある日を境に、その頻度が急激に下がる。

 ファミリーコンピュータ。通称ファミコンは、気づくと世界を席巻していて、周りの誰もが持っていた。その年、誕生日を迎えた友人から順番に、この機械を手に入れていき、自分の番がそろそろ回ってくる、という時期になると、店頭からこの機械は消えており、入手困難なアイテムになっていたようだ。

 早くより、これが欲しい旨を伝えていた自分だったが、世の中の状況には敏感だったので、多少なりとも不安があった。だからその日、プレゼントを買いにいくと聞いても、本当に買ってもらえるのか懐疑的だったし、父が運転する車が隣町に入っても、この街で手に入るとは思っていなかった。

 「ピッコロ」という店に到着した。どうやらここは、人形の専門店のようで、雛人形とか五月人形とか、洋風の人形やその服なんかも並んでいた。ベビー用品もあったような気がする。

 

父はちゃんとリサーチしてくれていた

 入店して、父が店員さんに声をかけると、我々は入り口奥のショーケースに案内された。そこには、ファミコン本体も、ベーシックも、さらには任天堂の当時のゲームラインナップも全てならんでいた。

 自分はこの時勘違いをしていて、ベーシックシステムも買ってもらう事になっていた。そのため、クリスマスプレゼントもこの誕生日プレゼントに含むことになっていた。セット内容の最後の1アイテムだったゲームソフトを選ぶフェイズとなった。しかし、ラインナップのほとんどは誰かが持っていて、やった事があった。

 ドンキーコング、ドンキーコングJr、ポパイ、ベースボールにテニスなど、漠然とファミコンがほしかった自分は、その中から決め手となる1本を選べないまま、迷っていた。

 

「マリオブラザーズか、ピンボールが良いんじゃない?」

 

 兄の言葉を真に受けた自分は、そのどちらかにしようという気持ちが芽生えたものの、どちらが良いかは決められず、最後は兄が、マリオブラザーズを友だちから借りてきてくれるというので、ではピンボールにしよう、という事になった。

 実際、ピンボールを持っている友人はおらず、そして、地味ながら面白かったこのゲームは、ファミコンライフ初期において、有効なアイテムとなった。

 

ファミコン一家誕生

 買ってもらったファミコンを大事にかかえ、家に帰った自分は、RFスイッチケーブルをテレビにつないでもらい、早速みんなでピンボールをやった。左右のパドルをボタンで操作し、落ちてくる銀球を打ち返す。玉が当たった箇所で点数が入り、そして頂点を撃ち抜くとピンボール台の上画面のステージに移行できる。 

 誰でも遊べるシンプルなゲームを最初に買った事は正解で、これを遊ぶ事でみながファミコンの良さを理解し、父は麻雀を、兄はベースボールを購入し、我が家のファミコンライフは充実していった。

 やがて誰もやらなくなったピンボール。だが、これは友人の誰も持っていなかったため、何か別のゲームを借りる際に、代わりに貸せる良いアイテムだった。たいてい、持っているものが被って貸し借りが成立しにくかったが、自分はこの1本のおかげで、借りたいゲームを良く借りれた。

 期限は大体1週間。3日くらいで返してしまう事もあったが、そうなっても丁度良い。ピンボールはいつでも始められて、いつでも辞められる。長編RPGならばこうはいかない。

 それから、ファミコンでは色々な思い出のゲームを遊んだが、これほどに良いものは無かった。友人の一人はセガを持っていたが、彼はゲームの貸し借りが出来ずに悔しい思いをしていた。

  田舎においては王道が正義。みんなが巨人を応援して、土曜の20時はドリフを見ていた。そんな田舎での幼少期に、ファミコンが選ばれたのは正解だった。

天外魔境III NAMIDA

ナンバリングはNECプラットフォーム専用

 稀代の名作、天外魔境の3作目はPC-FXで出る。そのようにゲーム雑誌で紹介され、ハドソンとNEC-HEの関係性が如実に現れたこの状況は、ファンにとって良かったのか悪かったのかで言うと、きっと悪かったのだろう。

 スーファミで出た天外はZERO。サターンで出た天外は第四の黙示録。明確なナンバリングはNECプラットフォームにしか出さないということであろうなか、3作目NAMIDAをPCエンジンの後継機で出すことで、ハードの売上につなげるのは当然の戦術であり、自分的にはその手法に乗るつもりだった。

 

 だけど出なかった。ハード不振のせいか、ハドソン側の問題なのか、とにかくいつまで立っても発売予定の欄にあるだけで具体的な日程が出てこないまま、やがてハードとともに消えてしまった。

 

サクラ大戦と天外の関係

 その頃、天外の生みの親である広井王子さんは、セガサターン向けのドラマチックアドベンチャー「サクラ大戦」シリーズを大ヒットさせていた。そのため自分は、「広井王子がサクラ大戦で儲かったので、天外はどうでもよくなったのだ」と誤解して広井さんのことを恨んでいた。これは勘違いだったようだと後に判明する。

 

 それからまた何年か経ち、急にハドソンがPSPなどで天外魔境のリメイクとか始めたと思ったら、IIIもまたPS2で出ることになったとのこと。もう絶対に出来ないと思っていた天外IIIがとうとう出る。それだけ聞いて有頂天になった自分が、どれだけ愚かだったのかを知るのはもっともっと後のことだった。

 

名前は天外だが品質は別もの

 予定よりも遅れてついに出た天外魔境III。あの頃とは違い、時代が変わったことで3Dモデルとなったが、3Dの品質自体は時代遅れで不気味な出来だった。それだけでもう不満だったけど、シナリオも何のひねりも無くつまらなさすぎて、なんかもうなんの印象も残ってないし覚えてない。

 

 ただただただただ、自分達があれほどやりたかった本当の天外IIIがやりたかったし、こんな出来の悪い偽物に天外魔境IIIを名乗ってほしくなかった。桝田省治氏の真の天外IIIが世に送られなかったことがゲーム業界にとっての大きな損失であったと自分は今も思っている。

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