昨日の夜、仕事を終えたちゃりこが高速バスで帰京した。
区内の我が家に泊まって、今日の午前中に、入院中の私のところに見舞いに来てくれた。
午前中は、面会時間外。
裏作戦での面会は、一階売店前のベンチにて。
私が、売店で買物にいくふりをして、三階病棟からエレベーターで降りていき、一階に来てもらったちゃりこに会うというだけのもの。
一階には、外来患者も来ているし、救急患者の家族や、面会時間帯には絶対来られない家族が荷物を渡すため等は黙認されているので、私たちも利用したというもの。
裏情報として教えてくれた看護士さんがいたわけだけれど、知っていて、よかった。
まずはちゃりこ、髪を肩上までに切り揃えていた。
ほんの三週間ほど前に、私のほうが彼女の演劇公演発表会を観にいったときには、背中上あたりまで延ばしていた、彼女史上最長だった髪は、もしかしたら役作りだったのかな……
ちゃりこの近況を聴いたあと、病気の話へ。
真実全てをありのままに話すかどうか、全面的に私が信頼している私の弟(ちゃりこの叔父)と意見が分かれ、昨日夜中から明け方までメールのやり取りをしていた。
私の弟は、実家で、私の両親(ちゃりこの祖父母)を一人で世話している。
認知症の程度も進んできた中でコロナ時代となり、かなり閉鎖的に徹底管理をしてきた人間だ。
優しく強く真面目なヤツだけれど、少々意固地というか、不器用、視野狭窄な部分もある。
彼は、ちゃりこに全てを話すのは反対派。
“話してしまうことによって、一人で育ててくれた父親のために、仕事も辞めて帰ってきてしまうのではないか、ちゃりこの人生を壊してしまう”と危惧する考え方。
全てを話してしまったことを後悔することになるのでは、という考え方だ。
一方、私は、全てを話したことに関して生じる責任よりも、全てを話さなかったこと、つまり部分的にでも隠してしまったことに関して生じる責任のほうが後々重い責任が生じるだろうという考え方。
病名から治療法等、全てを話すつもりでいた。
夜が開け、ちゃりこが病院にやってくる、午前10時直前まで、悩んだ。
そして、髪型を変えたちゃりこがやってきた。
今回は私が折れることにした。
それは、弟を立てるとともに、ちゃりこに真実を全て伝える前に、ちゃりこの強さをもう一度確認してからでいいと思ったからだ。
近況を聴いたあと、私の病気の話へ。
ゴールデンウィーク後帰京してから、ぐったりの数日、友人の医師に相談、近所の病院での検査、そして紹介状をもらって今の病院に来て緊急入院……
腎臓機能の悪化と治療での回復、血液の異常と回復、検査での原因究明……
そこからぼかす……
難しい病にかかってしまった、原因不明、生活習慣や過労、不摂生によるものではない……
長い戦いになり、完治はないかもしれない、コントロールしながら生活することになる、そのための治療をするには更に転院が必要……
ちゃりこの顔の真剣さが増す、私は話しながら涙をこらえる……
「牛乳が飲みたい、やっと許可が出たんだ」と私が語り、ちゃりこが売店で買ってきてくれる。
点滴ポールを握りしめ、私は体勢を立て直す……
紙パックの牛乳で乾杯する……
難しい戦いになる、長い戦いになるかもしれない、と私は続ける、主治医が語ったことも話す……
「コントロールしながら回復し、20キロ、30キロ、50キロと延ばして、一日100キロくらいのサイクリングができるまでに回復することだって可能です」と言われたこと……
私は続ける。
絶対に勝つつもりだ、負けるつもりはない、必ず復活する、まだまだちゃりこと走りたい……
ただ……
本質は、その先だ、と私が私に促す……
ただ、約束してほしい、ちゃりこに大切なものを一つも失ってほしくない、おとうさんの病気のためにひとつも大切なものを失ってほしくない……
積み上げてきた仕事のキャリアも、育ててきた中高時代の友人関係、大学の手話部の仲間たちとの時間、勤務先で知り合った人たちとの友好、新天地での新しい手話サークルでの付き合い、演劇の仲間たち、ささやかな趣味活動……
それら全てをおとうさんの病気のためになんて犠牲にしてほしくない……
ちゃりこ、マスクの上の瞳で私をじっと見つめる……
涙を溢さないように、私は時折そっぽを向いて、さも看護士さんか医師に見つからないか見回すように顔を背ける……
約束してくれるか、赴任地が沖縄になろうが、どこになろうが、やりがいのあるうちに仕事を辞めないって……
ちゃりこが強く頷く……
大切なものを何一つ、おとうさんのために捨てないって……
ちゃりこ、もう一度強く頷く……
おとうさんはまだまだ生きたい、私は続ける……
でも、それはそばにいなくても、同じ地上にいて、ちゃりこが幸せで笑顔でいることを、見たい、感じたいからだ……
ちゃりこ、もっと強く頷く……
サイクリングは例えだ、今年の夏の終わりか秋にちゃりこと走りたい、間に合わないかもしれない、ならば来年春でもいい……
ちゃりこ、落ち着いて頷く……
今度はちゃりこが坂の上で、遅れてヘトヘトになったおとうさんを待っているかもしれない……
頷くちゃりこの瞳は強く輝く……
忘れないでほしい、年老いていくおとうさんにいつもべったり貼り付いているちゃりこを見ていることがおとうさんの幸せではない……
ちゃりこ、口を開く……
「病気の名前は言いたくないの?」
ちゃりこが優しく訊ねる……
私、迷う、でも、ちゃりこの強さを確認できて満足だった……
ちゃりこが不登校だったときに批判的だった祖父母を尻目に、ずっとちゃりこを可愛がってくれた私の弟(ちゃりこの叔父)の顔を、今回は立てようと思い出す……
そして、ちゃりこの強さを信じていたのは、やはり私だったと確認する……
「整理して、次に会ったときに話すよ」と私が言う。
「わかった」とちゃりこが応える……
充分だった。
一時間ほどの裏作戦での時間外面会……
ちゃりこの短くなった髪を撫で、頬を撫で、額にキスをして、抱きしめた……
ちゃりこはそれらを全て、リラックスして受け止めてくれた……
病院の玄関を出ていくちゃりこに、私は手を振り続けた。
4、5回、振り返ったちゃりこも、小さく手を振り返してくれた……
ちゃりこは大丈夫……
私も大丈夫……
病室に戻ると、薄々わかっているくせに、「ちゃりこ父さん、どこ行ってたんですか? 心配してたんですよ」と訊いてくる看護士さんがいた。
そんなのも、例えば私がまだ短い入院期間中に築いた大切なものだ。
同室の患者さんも、「また脱走したがってどこか行ってたんでしょ」と笑った……
ちゃりこもちゃりこで、午後からは、演劇公演発表会を東京から観に来てくれた中高時代の同級生に会う予定だ。
夜は、大学時代の手話部の集まりに参加する予定だ。
ちゃりこ父は、片隅に、脇役として小さなキャストでいれば良い……
あとは、弟に、「ちゃりこはちゃりこの優しさと強さを持っている。病名や真実を全部話すのは次回にした」と送信するだけだ。
もちろん、ありったけの感謝の気持ちを込めて……
ちゃりこの笑顔が、
ちゃりこ父の幸せ……