(その1・左遷篇)(その2・国史篇)(その3・怨霊篇)と菅原道真公にまつわる話を書いてきましたが、今回は(その4・天神篇)ということで、京都の北野天満宮の謎を中心に、天神としての道真公の背景に触れたいと思います。
北野天満宮は、祟りをなす道真公の荒ぶる御魂を鎮魂し、さらには、天神として祀ることで国家平安を祈念する全国の天満宮の総社です。
人々の様々な思惑や策謀によって怨霊として恐れられ、天神・雷神とされた道真公ですが、(→「その3・怨霊篇」)、まずは、道真公とはあまりゆかりのない北野の地に祀られることにになったいきさつから見てみましょう。
1.天神・道真公のお告げ
道真公が死去して40年目の942年、京に住む多治比文子(たじひのあやこ)という老女に天神の霊がおりて、
「われを右近の馬場のある北野に祀れ」
という神託がありました。
この多治比文子とは、道真公の乳母だったとも、巫女だったとも、幼女だったとも諸説ある不思議な人物です。
それから5年後、今度は、近江の比良宮の神官の7歳の息子に天神がおりて、再度
「われを北野に祀れ」
という神託がおります。
これに驚いた父親の神官・神良種(みわのよしたね)は、先の多治比文子やその親族らとともに、北野の朝日寺の僧・最鎮に相談し、947年に北野に神社を建立し、道真公を祀っておりました。
その噂は、関白藤原忠平にも届き、忠平は息子の右大臣藤原師輔に命じ、959年には藤原家の私財が投じられた壮麗な神殿が完成します。そして、987年に一条天皇の宣命によって正式に「北野天満宮」が誕生したのです。
右大臣藤原師輔の私邸を移築したと伝わる本殿は優美で壮麗です。
藤原氏は、やはり天神の祟りが怖かったんでしょうね。
京と近江で同じ内容の神託が下されたというのは、その神託に信ぴょう性があるとみるべきなのでしょうか、それとも何らかの作為によるものとみるべきなのでしょうか?
「神託」の内容とはおおよそ次のようなものです。
「私が、生前、屡々遊んだことのある北野の右近の馬場に祠を造ってほしい。そうすれば、胸の憤りも鎮まると思う。
私が懐くはげしい恨みの念は炎となって天に満ち,私の従類の雷神,鬼類は世界の災難を引き起こしている。私は不信の者を疫病にしたり,雷神に踏み殺させている。
人々は加茂神社や八幡社のみを崇めるが,私を崇める人に対しては守護を与える。」
また、神託通りに、同地に松の種をまいたら、一夜にして松の林になったという奇瑞譚も語られたりしました。
こうして、道真公の祟りの恐怖が記憶に新しかった当時、神託はたちまちに世に広まり、ついに朝廷や藤原氏を動かしたようです。
どうやら、多治比文子やその親族と近江の比良宮の神良種らは、もともと何らかのつながりがあり、彼らは北野に道真公を天神として祀ることを目的に神託を世に出したということだったのではないでしょうか?
そして、僧・最鎮もまた、彼らに同調し協力したのでしょう。
「多治比氏(たじひし)」とは、別名「丹治氏(たじし)」ともいい、道真公の祖先・土師氏(はじし)の一氏族とされています。文子が道真公の乳母というのは、年齢的に無理な話ですが、何らかの同族関係がみとめられるのかもしれません。
ともに、それぞれ天穂日命(あまのほひのみこと)、彦火明命(ひこほあかりのみこと)を始祖にもつ出雲系の氏族と考えられます。
また、近江・比良宮の祭神は「猿田彦命」で、これもまた出雲の神であり、神官の「神氏(みわし)」は、「大神氏(おおみわし)」の一族で、やはり出雲系です。
また、比良宮は、修験道の道場という面もあったようで、僧・最鎮は、修験道にも通じていて、比良宮で修行したといわれています。
出雲氏族でありながら異例の出世を遂げ、最後は藤原氏の讒訴によって太宰府で失意の死をとげた道真公。
北野天満宮の建立の陰には、その道残公を怨霊とすることで、祟りを恐れる藤原氏に北野の地に社殿を造らせようとした多治比氏ら出雲系のグループの動きがあったようです。
でも、なぜ北野なのでしょうか?北野には何があったのでしょうか?
多治比文子を祭神とする京都市下京区の「文子天満宮」
北野天満宮にも配祀されていますが、神として祀られる文子さんって何ものだったのでしょう。
2.北野天満宮の不思議
北野天満宮には「天神さんの七不思議」がありますが、その中に
「筋違いの本殿(すじちがいのほんでん)」と呼ばれる謎があります。
北野天満宮のHPによると、
「参道の正面に本殿がそびえ立つ。というのが多くの神社で見られる光景ですが、当宮の楼門参道の正面には摂社の地主社が立っています。これは、もともとこの地には地主神社があり、のちに菅原道真公をおまつりする社殿を建てたという歴史的な理由から、本殿は地主社の正面を避けて建てられました。」
北野天満宮案内図
多治比文子らは、当初北野に道真公をお祀りしようとした際、もともとあった地主神社の祠の傍らに、あえて社殿を築いたようです。
そして、のちに社殿が整備された時には、なぜか、参道の先に地主神社が建ち、道真公を祀る本殿へ行くには、参道を西へ大きく曲がらなければならないという配置となったのです。
北野に古来から祀られていたという地主神社。
普通、参拝者は一の鳥居や楼門で頭を下げますが、この配置では、参拝者は期せずして地主神社も礼拝するかたちとなります。
天皇や藤原氏をはじめとする権門の人々が、天満宮に参拝する時は、同時に地主神社にも頭を下げることとなるのです。
本殿が摂社である地主神社の正面を遠慮して建っているとはどういうことでしょう。
一体、地主神社の神とは、どんな神様なのでしょうか。
「続日本後紀」では、「836年に遣唐使のために天神地祇を北野に祀る」とあり、北野天満宮のHPでもその記述をうけて、「地主社は、天神地祇を祀っている」と紹介されています。
しかし、遣唐使の航海の無事を祈願するのに、すべての神々を祀るというのは、あまりに総花的ではないでしょうか。
「続日本後紀」の編者は、藤原氏に遠慮して本当の神様の名前を出せなかったのかもしれません。
落雷の多い北野の地は、その100年ほど前から、雷神に豊穣を祈願する祭祀が行われていたといいます。
なぜ、雷神が作物の豊穣に関係があるかというと、
雷は、降雨と稲妻をもたらします。
雨は土地や作物を潤し、稲妻はその名に「稲」があるように、空中で放電することで、空気中の窒素を固定し、土地に窒素という養分をもたらし稲の生育を助けるのです。
「雷が落ちたところは、稲がよく実る」ということを、古代の人は経験的に知っていたのでしょう。
北野天満宮の本殿の背後に控える地主神社の祭神は、もともとは古来から信仰されてきた自然神の雷神様だったのでしょうか。
3.上賀茂神社の別雷命とは?
雷神といえば、京都には「葵祭」でも有名な「賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)」(通称は上賀茂神社)があります。
今年の葵祭で斎王代が身を清める「御禊(みそぎ)の儀」の様子。
『賀茂縁起』には、6世紀欽明天皇の御代、日本国中が風水害に見舞われたとき、占いで賀茂大神(賀茂別雷命)の祟りであると出たので、4月吉日を選び馬に鈴を懸け、人は猪頭(いのがら)をかむりして盛大に祭りを行い、風雨をおさめたことが「葵祭」の起こりであるとに記されています。
794年に平安京が遷都されたさいに、桓武天皇は、この上賀茂社を都の総鎮護とさだめ、都の鬼門の守り神、総地主の神として厚く崇めました。
桓武天皇は先の長岡京時代には、早良親王らの祟りや天災や疫病の流行に悩まされ、わずか10年ほどで都を平安京に遷さざるを得ませんでした。
そして、その桓武天皇が、新都・平安京の総鎮護の神と頼んだのが、上賀茂神社の「別雷命(わけいかづちのみこと)」だったのです。
この「別雷命」とは、どんな怨霊をもしのぐ強力な神で、ただの自然神以上の神様のようですが、一体どんな神様なのでしょうか?
また、当時の人は、北野天満宮に道真公が天神・雷神として祀られた時、上賀茂神社の「別雷命」との関係をどのようにみていたのでしょう。
「山城国風土記」は、「別雷命」について、次のように伝えています。
「建角身命(賀茂氏の祖)の姫・玉依姫が(たまよりひめ)が賀茂川の上流から流れてきた丹塗矢を寝所に置いたところ懐妊し、それで生まれたのが賀茂別雷命であり、丹塗矢の正体は、乙訓神社の火雷神(ほのいかづちのかみ)である」
これによると「別雷命」とは、丹塗矢に姿をかえた火雷神と賀茂氏の姫とあいだに生まれたことになっています。確かに、「別雷命」とは、別れた雷ということで「火雷神」の子供ということになるのでしょう。
全国の神社の由緒や伝承を調べて独自の古代史を構築する小椋一葉氏によれば、イカヅチ―ワケイカヅチの親子は、出雲のスサノオとその第5子ニギハヤヒにあたるとされています。
その根拠となった各地の雷神社(いかづちじんんじゃ)等の調査の詳細については、ここでは割愛しますが、
私としては、平安京の総鎮護の神「別雷命」を、「ニギハヤヒノミコト」であるとすることには何ら疑義を感じません。
出雲から畿内へ雄飛し、その地を「そら見つやまとの国」と名付け、ヤマトを治めていた王・ニギハヤヒ。それは、神武天皇の東遷よりもずっと前のことだったのです。
そして、その後、歴史からは、どういうわけかニギハヤヒの名は消えて、怒れる怨霊神とされてきました。
怒れる怨霊神は、怨霊神であるがゆえに強力な守護の力を発揮します。
ニギハヤヒは、その後、別雷神と呼ばれるようになり、その「和魂(にぎみたま)」によって、人間に豊かな恵みをもたらし、また、「荒魂(あらみたま)」が発動されれば悪霊をも退散させる強力な神となったのです。
北野にもともと祀られていた地主神社の神とは、別雷神・ニギハヤヒノミコトの流れをくむ神だったのではないでしょうか。
それゆえ、多治比文子ら出雲氏族の血をひく者たちは、ニギハヤヒの名を抹殺した藤原氏に社殿を造るよう働きかけ、さらには、参道の正面に地主神社がくるように配置したものと考えられます。
北野天満宮とは、歴史から抹殺された古代出雲氏族の末裔たちが、「ニギハヤヒノミコト」という古代日本の基礎を築いた出雲の王を、道真公に託して蘇らせ、鎮魂しようとした神社だったのではないでしょうか。
古代日本建国の途上で、無残に砕かれた出雲の栄光。
その後は、古事記や日本書紀が建国の歴史をおおきくゆがめ、出雲の名すら消されてしまいました。
これについては、またいつか詳しく書いてみたいと思っていますが、
道真公はこの国史が描く歴史のウソを告発しようとし左遷されたのかもしれません。
未だ埋もれたままの本当の歴史。
本当の建国の歴史を知りたいと思う人が一人でも増えれば、いいなと思っています。