知っているようで知らない菅原道真公の謎(その3・怨霊篇) | にゃにゃ匹家族

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藤原時平らの讒訴により、大宰府に配流された道真は、職務も与えられず、粗末な住まいに、乏しい食糧で飢えをしのぐという惨状でありました。
配流されてわずか2年後の延喜3年(903年)に病のため太宰府にて死去。享年59歳でした。

「余見る、外国に死を得たらば、必ず骸骨を故郷に帰さんことを。
思ふ所有に依りて、此事願はず。」
(異郷で死んだ者は遺骨を故郷に返す習わしだが、自分は思うところがあるから、それは希望しない)
と遺言した道真は、太宰府に葬られます。

1.やっぱり、祟り?

翌年の延喜4年(904年)にかけて、各地で旱魃が起き、疫病も流行します。
延喜5年には、彗星が出現し、人々を恐れさせました。

延喜6年(906年)に、道真左遷に与した藤原定国が41歳で死去し、2年後の延喜8年(908年)には、かつては道真の弟子でありながら、道真左遷を助けたとされる藤原菅根が謎の熱病で悶死すると、巷では道真の祟りではないかという風評が流れるようになります。

翌延喜9年(909年)には、藤原家当主・左大臣時平も熱病にかかり加持祈祷の甲斐なく39歳の若さで悶死

両耳からヘビが垂れている時平の末期の姿。
ヘビは、時平の病気快癒を祈祷する僧侶の浄蔵(画面右下)を一喝し、浄蔵が退出したとたんに時平は絶命したといいます。


天候不順は激しさを加え、京には隕石が落下。
定国、菅根に続く時平の死で、藤原家はパニックに陥ったのしょうか、
時平の弟の忠平が、かつての菅原家の一隅に鎮魂(たましずめ)の祠を建立します。
どうやら、このあたりから「天神信仰」が始まっていくようです。

延喜9~10年、旱魃や疫病が続く。
延喜11年、洪水。
延喜13年、道真のあとをうけて右大臣になっていた源光(みなもとのひかる)が、急な雷雨で馬ごと泥土に埋まり死亡
人々は、突然の雷雨と増水を怪しんで、天神の祟りではないかと噂します。

延喜19年(919年)に、祟りを恐れる醍醐天皇の勅をうけて、道真の墓所の上に「太宰府天満宮」が竣工します。
しかし、天神の怒りは鎮まらなかったようです。

4年後の延喜23年(923年)、皇太子保明親王(やすあきらしんおう)が21歳で、急な熱病にて死亡
その後、3歳になる遺児・慶頼王(よしよりおう)が皇太子となります。

その年、源公忠の進言により、元号が「延長」に改元されます。
また亡き道真を右大臣に復し、正二位とするという詔が出されたりしました。

臨死体験後生き返った源公忠が、帝に「冥府で、帝の非道を訴える道真らしき大男をみた。すると冥府の役人が、公忠に『改元をしたらよからう』と助言してくれた。」と進言しているところ

しかし、改元の甲斐なく、延長3年(925年)には、慶頼王が、わずか5歳で病没
相次ぐ皇太子の早逝に、藤原家は動揺し、この後皇太子となった寛明親王は、祟りを恐れて3歳まで固く閉ざした部屋の中で戸外に出ることなく育てられたといいます。

さらに変異は続きます。
延長8年(930年)6月、その日、宮中の清涼殿では、公卿たちが集まり、雨乞いの合議していたところに、急に黒雲がわき起こり、雷鳴が鳴り響くなか、鋭い閃光が清涼殿を貫いたのです。
この落雷による数名の死者の中に藤原清貫の無残に焼け焦げた姿がありました。
清貫が醍醐天皇の側近で、かつて道真左遷の宣命を読み上げ、配流後は、道真を訪ね調書を取った人物であることから、その死は道真の祟りであると噂が広まります。

側近清貫の無残な死に様を目の当りにした醍醐天皇は、その衝撃と恐怖で病臥、その年の9月に崩御(享年46歳)

読経の声が低く響きわたり、諸臣が涙をぬぐう中、醍醐上皇(画面左上)は、僧侶にカミソリを当てられて落飾したのちに息を引き取ったといいます。

こうして、昌泰の変の関係者は、道真配流後の901年から930年の間の30年のあいだに、次々に早死や変死、悶死をとげるのです。

2.祟りの背景

このような死亡の状況とは、当時の医療や衛生環境、平均寿命から見てやはり異様なのでしょうか?
それとも、多少は早逝の傾向があるものの、普通に見られたことなのでしょうか?

私には、生前の道真公からいって、死後、怨霊となって関係者を呪い殺すとはちょっと考えにくいのです。
そもそも、祟りというのは、祟られる側の後ろめたい気持ちや、罪悪感があったうえでの話だと思われます。

藤原氏側にうしろめたい気持ちがあったところへ、日食や彗星が天に現れ、また、旱魃等の異常気象の天変地異が続きます。
当然、飢饉や、疫病も流行します
こうして人々の不安や不満が大きくなり、その矛先は為政者で権力をふるう藤原氏へと向かうでしょう。
また、その藤原氏の専横の犠牲となった道真に対しては、同情心や「道真公が、もしいたら」いう気持ちにもつながっていきます。

このように社会全体を不安が覆っているところへ、権力者藤原氏に対する不満や鬱憤、それに道真に対する同情心が入れ混じった社会全体の空気感というものが、怨霊・道真公が現れる背景となったと思われます。
 
藤原家のうち続く不幸をみて、「それ見たことか」と留飲を下げる者も少なからずいたでしょう。
「時平公があのような死に方をされたのは、道真公が祟られているのじゃ。」
「なんでも、僧侶の浄蔵殿が祈祷を始めたら、時平公の両耳からヘビが出ているのが見えたそうじゃで。恐ろしや。恐ろしや。」
口さがない京の人々は、口々に噂をしあい、日ごろの鬱憤を晴らしたのではないでしょうか。

修行中に絶命して生き返ったという僧侶が語った話は、たちまちに広がりました。
「菩薩様のお導きで地獄を巡っておりますと、塵にまみれてあわれな裸同然の4人の亡者と出会いましてな。地獄の長に聞きましたところ、そのうち一人は、延喜帝(醍醐天皇)だというておりましたわ。」
それでは、残りの3人は、誰じゃ、誰じゃと盛んに議論されたそうです。

源公忠が、改元を進言したのも、祟りに怯える帝や藤原家に、
「冥府の役人が改元がよかろうと申しておりました」
などと、もっともらしいことを言って取り入ろうとしたのでしょう。

また、同族の藤原氏の中にも、時平派が祟られていると演出して、自派の伸張を図ろうとしたふしも窺えます。
こうして、天地ともに不安定な状況の中、人々の様々な思惑・策謀が入り乱れて、「怨霊・道真公」が形づくられていったようです。

とはいえ、2人の皇太子の夭折により、時平の血筋は藤原北家の嫡流からはずれて、その子孫たちは中流貴族に没落していったのですから、「やっぱり、祟りじゃ~」ということになりますかね。

雷の直撃をうけて、藤原清貫が無残に焼け死んだときは、さすがに、人々は、慄然としたのではないでしょうか。

「天神・道真公は雷神さえも意のままに随えている・・。」と

画面右下の倒れている人物は、藤原清貫でしょうか

では、道真公が、死後に姿をかえたとされる「天神」とは、どのような神様なのでしょう。

全国に1万社とも2万社ともいわれ、私たちの最も身近な神様ともいえる「天神さま」
非業の死を遂げ、怨霊となったと信じられた道真公は、さらに「天神さま」となって今もなお信仰を集めています。
人々が道真公の背後に見ていた「天神さま」とは?

次回は(その4・天神篇)です。