邪馬台国論争 韓と韓国⑦ 韓国から狗邪韓国への行程の意味

 

 

【 イエスの磔刑と韓国 】

魏志倭人伝の冒頭、郡から倭へ至る行程記述で最初に登場するのが「韓国」と「岸狗邪韓國」です。したがって「韓国」と「岸狗邪韓國」は重要な意味を持っている可能性があります。

從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北狗邪韓國 七千餘里

過去記事で、韓国はイエス磔刑の場面を象徴し得るものであることを見ています。

  • KankokuK+(K+on+au)+K 十字架+(十字架イエス・キリスト)+十字架

ここでは中央の十字架上にはイエス・キリストの姿が見えますが、左右の十字架は空席でそこに本来架かるべき右盗と左盗の姿が見えません。

 

撮影 西宮戎神社 画像と記事は関係ありません

 

【 イエスの磔刑と台湾+韓国 】

過去記事で、この韓国を現在の「台湾」に措定していますので、台湾を見てみます。

twinには「…と…を対にする」の意味があり、ここでは「”a” 、”a”」を人の意味に解します。

  • Taiwanaa + twin ⇒ 「a” 、”a」を「・・・と対にする

台湾を韓国に繋いでみます。

  • Taiwan + Kankoku ⇒ 「a” 、”a・・・と対にする」 + 「十字架+(十字架上のイエス・キリスト)+十字架」 ⇒ (十字架上の"a")+(十字架上のイエス・キリスト)+(十字架上の"a")

台湾を韓国に繋げることによって、空席だったイエスの左右の十字架上に”a”(人)が架かるようになり、「韓国」という国名が「十字架上のイエスと2人」を象徴するものとなります。しかしここではイエスの左右の人は、差別化されていません。

 

【 左盗と右盗 】

ゴルゴダの丘でなされた3人の磔刑は、「イエス・キリストと左盗・右盗」であり、イエスにより「救われた人間の象徴」が右盗であり、「救われなかった(原罪から逃れられなかった)人間の象徴」が左盗であり、十字架上の2人は差別化されています。

イエスにより救われなかった左盗とは、現世で心の穢れ(煩悩)を晴らせなかった人間の象徴であり、数値で表すとすれば”666”若しくは”8”ということになります(”666”と”8”は、穢れた第八番目の無意識である阿頼耶識の意味)。一方イエスにより救われた右盗とは、現世で心の汚れを晴らした(原罪を購った)人間の象徴であり、数字で表すなら”999”若しくは”9”と言うことになります(”999”は”666”の反転、”9”は清浄無垢なる第九番目の無意識である阿摩羅識の意味)。言葉を変えれば死に際して、右盗は天へ召される人(仏教的には悟りを得て解脱する人)であり、左盗は天に召されない人(仏教的には解脱できずに再び娑婆世界に転生する人)であるということになります。したがって上で見た「十字架上の2人」を差別化するためには、それぞれを”8”(若しくは”666”)と”9”(若しくは”999”)に関連付ける必要があると言うことになります。

 

大道芸のお猿さん 撮影 大阪四天王寺

 

【 イエスの磔刑と狗邪韓國 】

中国の使節団は韓国(比定地は現在の台湾)を経て、狗邪韓國へ至ります。是を数値等で見てみます。

  • Kankoku ⇒ (K)+(K+on+au)+(K) ⇒ (十字架)+(十字架上のイエス・キリスト)+(十字架)
  • Ku.Ya+Kankoku ⇒ (9.8) + (Kankoku) ⇒ 十字架上の(9とイエス・キリストと8)⇒十字架上の(右盗とイエス・キリストと左盗)

韓国は、死すべき運命(十字架)を背負った「神仏と出会った差別化されていない人間」の象徴であり、狗邪韓國は、死すべき運命(十字架)を背負った「神仏と出会いその教えを信じ、それにより魂の救われた人間(右盗)」と「神仏と出会ったけれど、神仏の教えを信じず、むしろ神仏を迫害した人間(左盗)」の象徴の様に思えます。

 

韓国から狗邪韓国への行程は、ゴルゴダの丘におけるイエスの磔刑を背景にして、この世に生を受け神仏を信じて生きた人間と、神仏に背を向けて生きた人間の運命を対比的に示したもののように思えます。