邪馬台国論争 空白の150年

 

 

【 序 】

中国史書に倭、倭国に関する記録が存在しない期間があり、それは(通常)空白の150年間と呼ばれ、概ね次のように定義されています。

しかし梁書には次の記述があります。

正始中、卑彌呼死、更立男王、國中不服、更相誅殺、復立卑彌呼宗女臺與爲王。其後復立男王受中國爵命。

 

魏の正始(240年 - 249年)の間に卑弥呼が亡くなり、男王を立てたが国中が服さず更に互いが誅殺しあうようになった。そこで卑弥呼の宋女である臺與を擁立した。その後再び男王を立てたが、彼らは並んで中国から爵命を授かった。(私訳)

これだと中国史書の最後の記録は、266年の倭人(臺與だとされる)の朝貢ではなく、臺與の後に続いた何代かの男王が中国から爵命を授かったという記事だと言うことになります。この何代かの男王が何者なのか?は中国史書からの手がかりはないように思えますが、もし前回の記事で措定したようにクシャーナ朝の王が、倭国の神(王)でもあったとすれば、歴代のクシャーナ朝の王の中にその名前が存在することになります。以下で卑弥呼以降の時代の、クシャーナ朝の王と倭国の王(神)との対応関係を見てみます。

 

撮影 西宮戎神社 画像と記事は関係ありません

 

【 クシャーナ朝の王と倭王 】

上述の仮定の下で、クシャーナ朝の王と倭国の神(王)の対応関係を、即位/退位年等を考慮して、推理すれば次のようになります。なお左が倭王、右がクシャーナ朝の王(ソース:英語版wikipedia)になっています。

  • 卑弥呼 ⇒ カニシカ2世
  • 卑弥呼の後に即位した男王 ⇒ ヴァーシシュカ
  • 臺與 ⇒ カニシカ3世
  • 臺與の後に何代か続いた男王 ⇒ ヴァスデーヴァ2世、マヒ、シャカ、キプナダ
  • キプナダ王を最後に、クシャーナ朝は350年に滅亡する

こう見れば中国史書の倭、倭国に関する空白期間の開始は、クシャーナ朝滅亡の西暦350年からだと考えることが出来き、空白の原因はクシャーナ朝の滅亡に伴う倭、倭国の混乱にあったように思えます。つまり中国史書から倭、倭国に関する記録が消えたのは、クシャーナ朝滅亡の西暦350年から、高句麗と倭国などが朝貢をしたという413年までの間と言うことになるかと思います。このことはクシャーナ朝滅亡までは、倭国とクシャーナ朝は一体の関係にあったことを示しているように思えます。

 

撮影 神戸どうぶつ王国 画像と記事は関係ありません

 

 

なお上述は、過去記事とは異なる結論になっています(できればその過去記事は、後日修正したいと思っています)。