崇徳院(恋煩い) | 久蔵

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落語と歴史のブログ

百人一首の一人として有名な歌人でもあり後世に名を残している

 

 

平安の京の都の男女は三十一文字の和歌の文のやり取りで、逢うこともなく気持ちを伝えたという

 

和歌をしたためた手紙の素材や色や墨の匂いにまで趣向を凝らして、五感に響くメールだったという

 

このような話は大人になってから雑学で知ったが、落語の演目だということは最近知った、上方落語が発祥で桂三枝も演じていた

 

さんしの崇徳院は上方落語

 

落語の世界は江戸時代、この時代も平安の当時のように若い男女は和歌の文で恋に落ちた噺

 

現代のように逢わなくても、電子的なメールがあるわけではなかった

 

崇徳院(後の名)は鳥羽天皇の皇太子として生まれた、崇徳に天皇の地位を譲位した鳥羽上皇は次に崇徳天皇の弟の近衛を天皇にして

 

瀬をはやみの歌の意味

 

崇徳から天皇の地位を奪い上皇とし、鳥羽上皇が引き続き院の実権を握り続けた、これが白河院政に続く鳥羽院政

 

さらに近衛から天皇の地位をもう一人の息子の後白河に譲位させて鳥羽院政を続けた

 

崇徳上皇は政治権力のない上皇として、院では公家の歌会をしきるようになっていた

 

 

やがて鳥羽上皇が崩御すると後白河天皇が実権を握り、崇徳上皇とは兄弟で対立し

 

両者は勢力を持ち始めた武家の平氏と源氏に担がれ、皇族と摂関家と源平も交えて親子兄弟で骨肉の争いをすることになる

 

これが世にいう保元の乱で崇徳上皇は敗れ讃岐に流罪となりそこで最期を遂げたという

 

 

後白河天皇は息子に天皇の位を譲位して上皇となり院の実権を握った、これが後白河院政

 

後白河上皇は保元の乱で味方だった平清盛と対立する、京の都で勝者同士の勝ち抜きの争いをする、これが平治の乱

 

伊豆流罪となっていた源氏一派が力を蓄え源頼朝が台頭する、京の都での対立の渦中で挟まれたのが頼朝の弟の源義経

 

 

義経の武勇で平清盛を追い詰めることになるが、後白河上皇の陰謀策略によって義経は頼朝と仲違いし平泉に逃れ最期を遂げる

 

という史実になっている、このような話は平家物語や和歌や軍記物語や歌舞伎の題材にもなり、脚色されて現代の時代劇にもなっている

 

後白河上皇は有能な政治家であった、崇徳上皇は政治権力はなかったものの有職故実の文化人であり歌人でもあった

 

 

後世、老若男女に知られているのは平安から中世・近世を経て近代以降の現在も百人一首の和歌として、古典落語の演目としても残されているからだろう

 

摂関や院政などドロドロした政治の話や保元平治の乱や源平合戦などの血生臭い骨肉の戦争物語は興味はなく知らなくても

男女の噺は平安の世から江戸元禄時代も現代も色恋の感情はなんら変わらない

 

昇太の崇徳院は江戸落語調


浄瑠璃だったり歌舞伎だったり落語だったり映画だったりドラマも和歌と筋は変わらず普遍的で色褪せない

崇徳院は弟の後白河に政治力や軍事力で敗れはしたが、瀬をはやみの和歌は千年近くもの永い間、何世代にも渡って絶え間なく愛され生きている