醍醐と後醍醐 | 久蔵

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落語と歴史のブログ

鎌倉末期に天皇による親政を目指したのが後醍醐天皇、平安中期の醍醐天皇の延喜の治を理想とし自ら生前に後醍醐と名乗ったという

 

 

天皇の名は崩御後に崇められて命名される、よって現天皇は常に今上天皇と呼ばれ生前に名の呼称は相応しくない、ことになる

 

南朝は後宇多⇒後醍醐⇒後村上天皇とつながり、平安時代に藤原摂関を逃れ親政の治世を敷いた宇多⇒醍醐⇒村上天皇をなぞっている

 

 

南北朝を統一し公武を制覇した室町幕府第三代将軍の足利義満は理想国家を目指す

 

再び清和天皇系譜源氏の足利家が政治の実権を握り、日本史上最高の栄華を築いた

 

義満は寝殿造の金閣寺を造営した、秀吉が利休に造らせた黄金の茶室とともに黄金は権力の象徴

 

 

後に八代将軍義政が造営した銀閣寺は書院造で対照的、畳や障子や襖を初めて導入した和室の原型であり以降の茶室は銀閣寺に倣う

 

利休は二畳の究極の侘び茶室を完成し、黄金の茶室を造らせた秀吉と対立することになる

 

 

後醍醐天皇の即位から鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊後の南北朝の動乱を記した軍記物語が『太平記』

 

中心から左右や南北に外れたら後は崩壊する、天皇が俗世の頂点を目指したり政権を取ろうとした時、存続の危機が訪れる

 

 

日本史には天皇家存続の危機が何度かあった、南北朝時代は権勢力が二分割して敵味方が入れ替わり国家矛盾の不安定な時期だったという