武蔵国と下総国にまたがる橋だから両国橋
江戸の町がほぼ全焼し目の前に大きな川がありながら多くの家屋と人命を失ったという明暦の大火
川向こうに避難できるように大橋を架け、半焼した江戸城は今後必要ないであろう天守閣を修復しなかったという
四代将軍は城の防備より上下水道など基盤整備と江戸湾岸埋立事業に投資したという、隅田川は自然の堀だが神田川は人工の堀だった
橋の両端の広小路は混雑しないようまた、船でも避難できるよう建築構造物のない土地利用としている
釘を使わず即解体更地にできる屋台や見世物小屋はOKとしたので江戸一番の繁華街になったという
大川とは隅田川の旧名称で花火の時期は両国橋はひときわ賑わった、川の東側の東広小路は下総国なので幕府の町奉行管轄外だった
よって江戸では禁じられている肉屋や出版物のお店や見世物小屋もありさらに繁盛したという
のちに大川からの給水消火と家屋は解体して延焼を防ぐ自衛火消しのいろは組が組織化され江戸っ子が活躍した
橋がなかったのは戦乱の世で隣国から江戸へ攻め入れないよう防御するためだという、築地から勝鬨橋はまだ架かっていない
勝どきも月島も晴海もまだ埋めていない、橋の命名由来は日露戦争で旅順陥落勝利の勝鬨だという
平和なこの時代、江戸っ子は時の政権やお上にはあまり不満はなかったという、雲の上の存在すぎたのか徳川将軍家は慕われていた
政権の不満を感じ始めたのは幕末の雄藩政治から明治政府の藩閥政治、平民の不満は爆発し日露戦争後にはピークに達したという
現在の見世物小屋
不満があったのは江戸っ子や東京に住み始めた新市民、薩摩っ子や長州っ子はまた別の感情があったのかも知れない、というような噺も落語ではお馴染