月刊「測量」1月号 | つくば暮らし(隠居日記)

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月刊測量1月号にエストニアに行った紀行文を掲載していただいた。

世界遺産シュトルーベの測地弧に関する旅行記である。

その中のシュトルーベに関する部分を紹介する。



シュトルーベ

シュトルーベはドイツ系ロシア人である。当時エストニアはロシア帝国の一部であり、シュトルーベはタルトゥ大学で学んだ後1813年からタルトゥ天文台に勤め、1820年には天文台所長になっている。

1816年から1855年にかけてシュトルーベは、ノルウェーのハンメルフェストから黒海のイスマイルまで2820キロにもなる子午線弧長観測を監督指導した。これが今日の世界遺産の元になっている。

このシュトルーベの仕事はそのスケールも壮大であるが、精度から見ても歴史的にも素晴らしいものである。

精度を最大にあげるために、当時の最新の機器が使われた。子午線弧長観測のために細長い三角鎖の網が作られ、天文測地(三角)測量が行われた。天文三角測量で重要なのは、基線長を精度よく決めることである。このためフィンランドの凍結した湖面が使われた。水平で長い基線が取れるからである。この基線長観測では、シュトルーベ考案の特殊な検定装置が使われたという。検定では、パリから運ばれたtoise原器(当時の長さの基準単位toise)との比較が行われた。基線長観測に続いて、三角測量とて天文観測が行われ、三角鎖が南北方向に延ばされていき、子午線の曲率と曲率半径を決定できる程度にまで広げられた。このシュトルーベの三角鎖は、当時地球の子午線弧長を決めるための最長の三角鎖であった。三角鎖は、258の辺長と265の三角点及び65の補助点で構成されていた。三角鎖は、たくさんの国(今日それは、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、ロシア、エストニア、ラトビア、リトアニア、ベラルーシ、モルドバとウクライナである。)を横切って設置された。

シュトルーベの仕事は、国際的な科学協力の事例としても画期的なことであった。

シュトルーベは、ロシア皇帝、各国の王の資金援助や軍隊の協力を得ながら、三角鎖を南北に拡張する仕事を続けた。国の戦略上からも地図の重要性を認識し始めていた時代であったため、このような協力が得られたのである。

19世紀初頭は、科学的知識が加速度的に増えていった時代である。

測量の世界では論争が続いていた。地球はニュートンが言うような扁平な楕円なのか、主子午線はグリニッジにすべきかパリにするべきか、 長さの基本単位を何にするべきか(toisefootか)、・・。

タルトゥ天文台のエントランスホールの床に小さな金属標が埋められている。1825年にシュトルーベは、この金属標の上に望遠鏡を設置した。この場所はのちにタルトゥ子午線を示す場所になった。

シュトルーベの観測に基づくタルトゥ子午線はグリニッジ子午線が国際的に採用される50年も前にその重要性を認められていたのである。

シュトルーベの仕事は40年続いた。