2 アルゴリズムとテューリング機械

第2章では、以後の議論で重要になるいくつかの概念について説明がなされている。「決定問題」、「テューリング機械」、「計算可能」などの概念がそれである。

「決定問題」は、ドイツの大数学者ダヴィット・ヒルベルトが提起した数学上の問題で、 「原理的に数学の(ある適当な仕方ではっきり定義された部類に属する)すべての問題を1つずつ解決できる一般的な機械的手続きは存在するか」(41頁)という問いである。分り易く言い換えるとすれば、どんな数学上の問題も自動的に解いてしまうプログラムは原理的に存在し得るか、ということになるだろう。

この「機械的手続き」を私達はまさにアルゴリズムと呼んでいるわけだが、やや意外なことに、「決定問題」が提起された当時の数学においては、その「機械的手続き」が何を意味するのかが明確でなかったという。

「テュー リング機械」は、コンピュータ科学者だったアラン・テューリングが1935-36年に導入した概念で、「決定問題」における「機械的手続き」の内容を明確 にし、「決定問題」に取り組むためのもの。「テューリング機械」は単なる概念であって物理的な機械ではないものの、そのアイディアは、まさに現在のコン ピューターと同じものと考えて差支えない。

本章では結局、ドイツで活躍した数学者ゲオルク・カントールの対角線論法の変形を適用し、数学的問題を決定する一般的なアルゴリズム(テューリング機械)はあり得ないことが示される。

細かい手続き的な部分についても相当の頁が割かれているが、これはおそらく、アルゴリズムといわれるものの具体的イメージを読者が抱けるようにとの配慮からだろう。そのため本章はそれなりの分量があるように見えるものの、その結論は上のようにシンプルである。

と ころで本章の最後には、アメリカの論理学者アロンゾ・チャーチによるラムダ算法なるものの短い説明がある。正直言って説明の中の数式を私はあまりよく理解 できなかったが、テューリング機械によるアルゴリズムの説明がやや物理的イメージによりかかり言葉による説明を要したものであったのに対し、ラムダ算法は それを完全に数式によって表現している点が重要なのであろう。

これでアルゴリズムが原理的に有する限界の一つが証明された。次の章からペンローズは、人間の意識活動がそうした限界を有するアルゴリズムの遂行としては説明できないことの議論へ進む。


1 コンピュータは心をもちうるか?

第1章「コンピュータは心をもちうるか?」では、平易な言葉で、本書の主題が提示されている。

コンピュータ技術の発展によって、コンピュータが「考えている」ようにも見える事態が出現した。心(意識)とは何かという古くからある問題は、緊急性さえ帯びるにいたった。すなわち、
「心 はそれと結びついている物理的構造に機能の点でどこまで依存しているのだろうか。心はこのような構造とはまったく無関係に存在できるだろうか。それとも、 それは(適当な何らかの)物理的構造の働きにすぎないのか。いずれにせよ、心と関連する構造は本性上生物的なもの(脳)でなければならないのか、それと も、心はエレクトロニクス装置とも同じくらいにうまく結びつけるのか。心は物理法則に支配されているのか。だとすれば、その物理法則はいったい何であるの か。」(4頁)。
こうした問いに、ラディカルな形で向き合う研究分野がある。人工知能(AI = artificial intelligence)だ。AIは当然、人間の意識活動の少なくともある部分はコンピュータによってシミュレートできることを前提とするからである。

な かでも、「強いAI」と呼ばれる、ある徹底した立場がある。これは、人間の全ての心的活動は、何らかのはっきり定義できる操作の系列(アルゴリズム)を遂 行することである、と考える立場だ。これによれば、コンピュータのプログラムはまさにアルゴリズムであるから、それを実行することで、コンピュータはまぎ れもなく意識活動を行っていることになる。

強いAI論が徹底しているのは、アルゴリズムを実行する手段は何であっても構わないと考える点 だ。つまりアルゴリズムでありさえすれば、それを「実行するのが脳であっても、電子計算機、全インド人、あるいは歯車でできた機械装置であっても、送水管 のシステムであっても、何の違いもない」(24頁)。これによれば、たとえある1本のヒューズであっても、「一定量以上の通電があると断線する」というア ルゴリズムを実行する以上、そこに(人間よりはるかにレベルの低いものであっても)意識が生じていることになるだろう。

ペンローズは、こ の強いAI論、すなわち意識はアルゴリズムの実行にすぎないとする考えに賛同できないことを表明する。本書の大きな2つの目的のうちひとつが、強いAI論 に対する決定的な反論、すなわち人間の意識活動は非アルゴリズム的であるということの証明である。ちなみにもう一つの目的は、その意識活動が依拠する非ア ルゴリズム的な物理現象とそれを支配する法則の在り処を探ることだ。

次章から、まずは一つ目の目的のために、ペンローズはより理論的で厳格な議論をスタートさせることになる。

ところでこの章では、強いAI論に対する直感的な反論として、非常に面白い議論が紹介されている。「中国語の部屋」という思考実験で、アメリカの哲学者ジョン・サール(John Rogers Searle)の考案によるものという。

中 国語を解しない人間が一人である部屋に座っている。その部屋には小さな穴が二つあいており、片方の穴からは中国語で書かれた演習問題が差し入れられる。彼 は中国語ができないのでその問題を全く理解できない。しかし、どの文字に対してどのような操作をすべきかというマニュアル(すなわちアルゴリズム)は与え られている。彼は差し入れられた中国語の文字列に対しマニュアルに従ってある操作を加え、その結果である文字列をもう片方の穴から差し出す。

この思考実験の意味するところは、アルゴリズムを遂行し、正しい結果が得られたとしても、その主体(ここでは部屋の中の人間)は問題も答えも全く理解していないのだから、アルゴリズムの実行によって「理解」が生じるとはいえないということだ。

も ちろん、強いAI論を徹底するならば、この場合でも部屋の人間のいわば外側に、「人によるアルゴリズムの実行と結びつかない、肉体から離れた、そしてその 存在がいかなる仕方でも彼自身の意識と衝突しない、何らかの種類の「理解」が存在する」(23頁)と主張することもできるだろう。ただこれは確かに、直感 的にはかなりありそうもない話に思える。


 著者のロジャー・ペンローズは1931年生まれのイギリスの数学者・物理学者である。私自身には残念ながらペンローズの功績を正しく理解できる能力はない が、一般には、「車椅子の物理学者」スティーヴン・ホーキングと共同で行ったブラックホールに関する研究や、ツイスター理論、非周期的に平面を充填する 「ペンローズ・タイル」の研究等で著名とされている。

ペンローズは本書で、人工知能を作ることは理論的に可能か否かという問題に取り組 む。そのために、人の意識の構造を理論的に検討し、最終的には、意識の働きを解明するには、意識の非アルゴリズム的な構造に対応する量子論の分野における 新しい理論が必要だという、破天荒な結論を導く。

本書は、既に自身の専門領域で大きな功績をあげていたペンローズが、初めて一般の読者向 けに書き下ろした本ということだ。1989年に出版された本書の日本語訳が出たのが1994年。私が大学1年生のときだ。朝日新聞の書評だったか、「古典 となるべき本」と絶賛されていたのが目に入り、興味を持った。

6000円近くもするハードカバーの本書を学生だった当時はまだ買える余裕 もなく、図書館でリクエストして借りてきた。しかし届いた本は500ページを超える大著なうえ、ほとんどが数学と物理に関する内容だった。延滞に延滞を重 ねても、ようやく目を通せたのは半分にも届かなかっただろうか。それでもうっすらと味わった本書の中心的アイディアは、その後の私の物の見方に重大な影響 を与えた。その後、社会人になって本書を購入し再挑戦したが、やはり挫折した。そして昨年しつこく再々挑戦し、やっと読み終えた。なんとも、15年越しの 読書となってしまった。

この本は今のところ、私が出会った本の中で、私にとって最も重要なもののひとつだと感じている。ペンローズの主張 が正しい方向を示しているのかどうか、これはまだ分らない(以前に読んだ別の本によると、ペンローズの主張は学会ではやはり異端視され、旗色は良くないと のことだ)。しかし、意識とは何かという、人間にとっておそろしく重要な問題について、一人の理論物理学者が全力で取り組み、それまでなかった全く新しい 視点を創造したことに、私は心の底から感動するし、敬意を抱いている。

量子論において波動力学を創始したエルヴィン・シュレーディンガー(1887-1961)がその著「生命とは何か―物理的にみた生細胞―」(1944)のまえがきにおいて、次のように書いている。
「過ぐる100年余の間に、学問の多種多様の分枝は、その広さにおいても、またその深さにおいてもますます拡がり、われわれは奇妙な矛盾に直面するに至り ました。われわれは、今までに知られてきたことの総和を結び合わせて一つの全一的なものにするに足りる信頼できる素材が、今ようやく獲得されはじめたばか りであることを、はっきりと感じます。ところが一方では、ただ一人の人間の頭脳が、学問全体の中の一つの小さな専門領域以上のものを十分に支配すること は、ほとんど不可能に近くなってしまったのです。

この矛盾を切り抜けるには(われわれの真の目的が永久に失われてしまわないようにするた めには)、われわれの中の誰かが、諸々の事実や理論を総合する仕事に思いきって手を着けるより他には道がないと思います。たとえその事実や理論の若干につ いては、又聞きで不完全にしか知らなくとも、また物笑いの種になる危険を冒しても、そうするより他には道がないと思うのです。」
先輩であるシュレーディンガーのこの言葉を、著者はきっと知っていただろう。まさにペンローズは、この困難な仕事に挑んだのだ。

し かし、この稀有な著作は既にかなり有名ではあるものの、知ってはいても手を出すのをためらったり、読み終えることができずに中断してしまう読み手が少なか らずいるのではないか。これは私の経験に照らしてみて、そう思うということ。私がこの稿を起こしたのは、この本の魅力をなんとか分りやすく紹介し、また、 各章のダイジェストのようなものを作ることで、実際に読み始めた読者の助けに少しでもなればと思ったからだ。なにせこの冒険の書は相当に長いから。

最後の章までまとめるのにどれくらい時間がかかるか分らないが、少しずつやってみたい。