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今日も花曇り

読んだ本や考えたこと、仕事について。

今年立ち上げた職場での読書会で、ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』をとりあげました。

 

 

今までは、何度も読んでようやく著者の意図するところを読み取ることができるような本については、一人で問いを繰り返すだけでした。

それがこうして他の人の意見や感想を直接聞くことができ、得難い機会だったな、本当に読書部を作ってよかったなと思いました。

 

本について話し合うなかで印象的だったのが、

 

「自分は、もともと生きることに特別な意味はない、自分が存在することはただの偶然だと思っているので、生きる意味を突き詰めて考える著者の言いたいところについて、理解が難しい」

 

という趣旨の感想を述べた人が複数いたことでした。

わかってはいたのですが、ああやっぱりそうなのかと思いました。

 

たぶん、どちらかといえば、こうした感覚の人の方が多数派なのではないかと思います。

そしてこの点が、自分とは決定的に異なると感じます。

 

私は、自分や世界がこのように存在することが単なる偶然だと、どうしても思えない、または、思いたくないタイプの人間です。

 

それは、自分という存在が、私たちが知る物理法則に照らすとあまりに奇妙な存在(自由意志や、あまりに高度な自己組織化の問題)であることもあるし、物理法則がこのように定められているのはあまりに整然としすぎているし、何より、こんな残酷な世界で生を受けて苦しんだ人の人生が「ただの偶然」で「無意味」だったとすれば、それはひどすぎる、という思いがあるからです。

 

でも、上記のように、人生は無意味だと前提しても何も問題なく生きられる人が多数だとすれば、私のような考えこそ無意味で、苦しみのもとになるだけなのかも、とも思います。

 

フランクルのいう「人生の意味を問うことをやめ、人生から問われていることを知るべきだ」という主張は、おそらく、上記の二つの考えのいずれでもない、新たな考え方を示すものなのだと思います。

 

ただ・・・やっぱり私は「どうして生きるのか」と問うのをやめられないのです。

たぶん死ぬまでやめないと思います。

そして、死ぬときになっても「結局何もわからなかった」と思うかもしれません。

でも、問いをやめるよりは、そのほうがマシだと思っています。

 

私には小学校高学年の娘がいるのですが、娘もアトピーです。

 

乳児の頃からすでにアトピーで、まだはいはいもできない頃から、朝起きてみると寝巻が血で真っ赤になっていたりして、胸がつぶれる思いでした。

ただ、私、母親ともアトピーで、ステロイドによる治療の難しさが身に沁みていたので、ステロイドは使わずに、耐えていました。

長ズボンだとまくって足をかきむしってしまうので、長ズボンに靴下を縫い付けてまくれないようにしたりしました。

そうしているうち、大きくなるにつれ、ひざ裏に少し症状が残るくらいで、ほとんどアトピーを意識せず暮らせるようになりました。

薬に頼らずがんばったかいがあったと、ほっとしていました。

 

それが・・・

 

高学年になったここ半年ばかり、目に見えて悪化しました。

動画を見たりゲームをしたり、要するにリラックスした状態で何かに集中している以外の時間は、ずっとどこかを搔いています。

特に、目の前に何かしなければならないものがある(勉強、その他)状態だと、かゆみが強くなるようです。

 

見ると、手足や首、あちこちに炎症があり、皮膚が厚くなっている箇所があります。

それを隠すため、今年のような異常な暑さのなかでも、長袖長ズボンにマスクをしています。

 

もう年齢的に父親に見せるのは嫌のようで、症状を見せてほしいと頼んでも「絶対イヤ」といい、見せてくれません。

なので、私が認識しているより全身の症状はもっとひどいのではないかと、心配でなりません。

 

ベッドのシーツを見ると、落屑だらけになっていて・・・

こんなこと、今までありませんでした。

 

自分のアトピーでこれほど苦しみ、今度は娘もとは・・・

確実に遺伝なので、自分のせいで、と、責任を感じてしまいます。

 

さらに苦しいのは、私と母親でも、娘のアトピーについての考えが違うことです。

母親は、彼女自身も含め、ホメオパシーでアトピーを治そうとしています。

ステロイドでは根本的には治らないことを痛感しているからです。

 

ただ、私自身は、ホメオパシーは説明されても、どうしても、まじないレベルとしか思えません。

標準治療が頼りにできなくとも、根拠のない代替医療に頼るより、もう少し合理的というか、科学的に考えていきたいのです。

 

そして私自身、長いことステロイドを使わずひたすら耐えても、結局それで治ったわけではありません。

今は、悪いときには多少はステロイドも使いつつ生活に気を付ける、というやり方もアリなのだと感じているところです。

 

しかし母親にそれを伝えたところ、「今、毒出しをしているところなので、ご心配なく」と、そっけないメッセージが返ってきただけでした。

そして、娘が混乱するから、他の治療法のことを娘には言うなといいます。

母親に対する怒りや憎しみさえ感じましたが、母親の気持ちは、理解はできます。

決定的な治療法がない以上、私も、こうしたほうが絶対によい、ということはできません。

 

私と母親は今別居しており、こうした問題について話し合う信頼関係がもう全くありません。

その不利益を娘が受けるのだとすると、いたたまれない。

 

人生で最も多感な時期でありながら、治療方針や生き方を自分で決められるほどには成熟していないこれからの時期を、娘が苦しみながら過ごすことになったとしたら、耐えがたい。

ここで、こんな苦しみを味わうとは・・・

 

よく、日本は貧しくなったと言われます。

 

増えない収入、円安、GDPの低下、その他いろいろ・・・。

最近も、PS5が多くの人には手が届かない価格に大幅値上げされ、ソニーはもう日本市場を見捨てたなどと話題になりました。

確かに、貧しくなった気がするニュースをよく目にします。

 

でも私は、必ずしもそうは思っていません。

別に私は、精神論を述べるのではありません。

所得やGDPの数値は、豊かさのごく一部を数字にするに過ぎないというだけです。

 

ロバート・F・ケネディが大変心を打つ言葉で述べています。

 

「アメリカのGNP(国民総生産)はいまや年間8000億ドルを超えています。
しかし、そのGNPの内訳には、大気汚染、タバコの広告、高速道路から多数の遺体を撤去するための救急車も含まれています。
玄関のドアにつける特製の錠と、それを破る人たちの入る監獄も含まれています。
セコイアの伐採、節操なく広がる都市によって失われる自然の驚異も含まれています。
ナパーム弾、核弾頭、都市の暴動で警察が出動させる装甲車も含まれています。
それに・・・子供たちにオモチャを売るために暴力を美化するテレビ番組も含まれています。
それなのに、GNPには子供の健康、教育の質、遊びの喜びの向上は関係しません。
詩の美しさ、結婚の強さ、市民の論争の知性、公務員の品位は含まれていません。
われわれの機知も勇気も、知恵も学識も、思いやりも国への献身も、評価されません。
要するに、GNPが評価するのは、生き甲斐のある人生をつくるもの以外のすべてです。
そして、GNPはアメリカのすべてをわれわれに教えるが、アメリカ人であることを誇りに思う理由だけは、教えてくれないのです。」

(1968年3月18日のカンザス大学での演説の一部)

 

現代に置き換えれば、バブル景気で生み出される莫大な不動産の取引額、ただ一瞬の興味を引くために作成されるコンテンツと、そこ投入される莫大な広告費、そして、いつの時代も変わらない、天井知らずの価格のおびただしい兵器・・・。


それらは創出された冨としてカウントされますが、それで人間が豊かになるかといえば、否というほかないと思います。

 

実際、アメリカ経済は世界で独り勝ちのように言われますが、子どもと高齢者以外の世代で死亡率が増加しているといいます。

 

 

日本は貧しくなったと言われます。

それでも、スーパーには豊富に品物が並び、手ごろな価格の飲食店でも丁寧な接客とおいしい食事が提供され、街は清潔で、水道の水はそのまま飲むことができます。


思うのですが、日本のこうした「きちんとした仕事」は、数字としてGDPに反映されるわけではありません。

私は、上がらない賃金と価格のなかでも、値段以上のものを提供しようとする日本人の努力は、本当にすごいと思っています。

 

私は、あまりに数字ばかりを見ることの問題点をいうだけであって、だから日本は問題ないというのではありません。

反対に、娘の世代ではいったい日本はどうなってしまうだろうと、とても危機感があります。

 

でも私は、世間の後ろ向きの雰囲気は、貧しくなったこと自体というより、貧しくなったと感じる痛みからも来ているのではないかと思います。

これは、拝金主義、言い換えれば、行き過ぎた市場主義の弊害だと思います。

 

マイケル・サンデル教授はこの点

「あらゆるものが商品となってしまったせいで、お金の重要性が増し、不平等の刺すような痛みがいっそうひどくなった」

と言っています(『それをお金で買いますか 市場主義の限界』)。

まさにそうだと思います。

 

今の日本は、お金以外の評価基準がとても貧弱です。

信仰や思想の背骨が欠けているからなのでしょうか・・・

 

数字やデータ、それに紐づけやすいお金といったものは、事実のごく一部を、カウントしやすい形で取り出したものにすぎないという当たり前のことを、私たちはもっと意識してもいいと思います。