読書は時間の無駄? | 今日も花曇り

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読んだ本や考えたこと、仕事について。

Yahoo!ニュースにこんな記事がありました。(時間が経つとリンク切れになってしまうかもしれませんが)

 

 

英「サンデー・タイムズ」の記者ウィル・ロイドは、10年間で8280時間を読書に費やし、悟った。

「時間の無駄だった」と。(中略)
私は10年で8280時間を読書に費やしたのだ。

この人間離れした意志力を仮想通貨の取り引きに注いでいれば、いまごろ私は億万長者になっていただろう。

あるいはジムに通うこともできたはずだ。

 

なにをっ・・!?

と思ったのですが、実際読んでみると、

 

本の世界に深く没頭する読書という行為は、私たちの世代で終わる可能性がある。

そして執筆はもっぱら、チャットボットとセレブ児童書作家たちが担うようになるのだ。

となれば、残る私たちはプラトンの『国家』(第7巻)に出てくる、洞窟に住み、幻惑された人々のように、座って壁にゆらめく影を眺めることになるだろう。

 これは文明の崩壊を意味しているはずだ。

しかし、大半の人々は、本を読むより、そうしているほうが、きっと楽しいに違いない。

 

とあったので、著者は読書をおろそかにする風潮を皮肉っているようでした。

 

一口に読書といっても、いろんな機能があり、本の内容も本当にいろいろなので、簡単な話でもないと思います。

単に知識の取得というなら、確かに読書以外にもたくさんの手段があり、読書の優位性は薄れている気がします。

また読書をしているから優れた人間というわけではないことは、スターリンがすさまじい読書家だったことでも明らかなように、必ずしも関係しないようです。

 

でも読書には、それ以外でなかなか得られない「体験」があると思っています。

自分の人生なんて本当に狭い範囲の小さなものでしかないので、この世界で起こりうることを実際に経験したり、理解したりできるのは、本当にごく一部です。

本の中に書かれていることを何とか自分の中に取り込もうと格闘することで、自分の認識や世界観が少し変化せざるをえなくなる。

多くの場合、それは何らかの知識の取得でもあるわけですが、単純なそれではない。

 

よく読書のことを「インプット」という人がいます。

でも私の感覚では、本を理解するためには、読んだものを整理し位置づけながら読む必要があるので、頭の中の運動としてはアウトプットもしている感覚です。

 

それは独特の「体験」で、読書以外にはないとまでは言いませんが、他では得難いのは確かです。

 

読書が無駄というなら、人間の文化的な活動は、全て無駄ともいえるでしょう。

でも、効率的に情報処理するだけなら、機械のほうがよほど得意です。

効率よく生きるのがよい人生なら、人生まるごと機械に替わってもらったほうがよさそうです。