職場の読書会で、川端康成の『山の音』を読みました。
新潮社サイトでの紹介文は(ただし上の写真は私の読んだ角川文庫版)
尾形信吾、六十二歳。近頃は物忘れや体力の低下により、迫りくる老いをひしひしと感じている。そんな信吾の心の支えは、一緒に暮らす息子の嫁、菊子だった。優しい菊子は、信吾がかつて恋をした女性によく似ていた、だが、息子は外に女がおり、さらに嫁に行った娘は二人の孫を連れ実家に帰ってきて……。家族のありようを父親の視点から描き、「戦後日本文学の最高峰」と評された傑作長編。
作者の最高の作品の一つとされているとのことですが、一読してテーマをを把握できるような内容ではなく、人により様々な読み方ができる作品でした。
私自身、多くのことを感じました。
でも正直、わかる部分もあるけれど全くわからない部分もあり、いつもより分析(考察)的な感想になってしまいました。
主人公の信吾は、若い頃に憧れていた、今の妻(保子)の姉の思い出をずっと引きずっています。
それだけでなく、女性と関係をもつ夢を何度も見たりして、女性に対する性的な執着のようなものがずっと残っているようです。
信吾は戦争のあいだに、女とのことがなくなった。そしてそのままである。まだそれほどの年ではないはずだが、習い性となってしまった。戦争に圧殺されたままで、その生命の奪還をしていない。(「傷の後」四)
この小説が発表され始めたのが、1949年(著者50歳の年)。
「生命の奪還」とは、相当強い表現だと思います。信吾にとって、性は生命だというのです。
新婚なのに不倫する修一も帰還兵です。作中で「心の負傷兵」という言葉も使われていました。
相手の女性も戦争未亡人。戦争が二人を結びつけたともいえます。
こうした戦争の影響も、この作品の底に流れるテーマです。
私もその著者とほぼ同じ年齢。
こういう、人生の不完全燃焼感みたいなものは、確かにわかります。
一方で、信吾の「家」「家族」に対する感覚は、ずいぶん違うと感じます。
信吾は息子(修一)の不倫、それによる嫁の悲しみ、娘の結婚の失敗に責任を感じ、「自分は誰のしあわせにも役立たなかった」(「蚊の群」)といいます。
修一に黙って、妊娠した不倫相手の女性(絹子)に、中絶を頼むために会いにいったりもするのです。
私、というより現代の父親が、そんなことすることはまずないでしょう。
正直言って、小物語の内容自体には、あまり感動した部分はありませんでした。
反対に、構成、言葉や素材の選ばれ方、会話の自然さなどには、いったいどうしたらこんなものが書けるのかと、感銘を受けました。
物語自体には起承転結もなく、季節の巡る中で家族生活を描いているだけなのに、磨き抜かれた日本語でこれだけの長編として仕上がっているのは、本当にすごいとしか言いようがなく、巨匠の作品だと思いました。
特に、この小説を閉じる最後の短い一文には、優れた和歌を読んだあとのような深い余情があり、大変心に残ります。
これほど見事な終わり方は、ほとんど見たことがないくらいです。
信吾の声が菊子には聞こえなかったことは、修一が言った通り、やがて菊子も戦後の自由な人間として「家」の外へ出てゆくことを暗示しているかのようです。
それは信吾にとっては寂しいことかもしれませんが・・・。