映画『機動戦士ガンダムⅢ めぐりあい宇宙』(富野由悠季監督) | 今日も花曇り

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ガンダムってアニメ、観たことありますか。

 

全く興味ない方も多いと思います。

それでも、さすがに誰でも名前を聞いたことくらいはあると思いますが、何せ放映開始(1979年)から今年で46年。

その後も無数の派生作品が作られ、最初に放映された、いわゆる「ファースト」なんて観たことない、という人が結構いるのかもしれません。

私も放映時にはまだ小さかったので観ていません。

 

 

映画『めぐりあい宇宙(そら)』は、放映された初代テレビシリーズを劇場3部作として編集し直した総集編の、最後の作品です。

そういうと、ただのツギハギ映画かと、興味をなくす人もいるかもしれません。

 

でも、曲がりなりにもかなりの数の映画を観てきた経験から自信をもって言い切りますが、この映画は奇跡です。

「なんでこんなものができてしまったのか?」というくらい。

生みの親の富野監督には申し訳ないですが、その後の監督の作品は、この『めぐりあい宇宙』には遠く及ばない気がします。

 

「しょせんロボットアニメ」と、この作品を観ないなんて本当にもったいない!

 

富野監督は1941年生まれ。

宮崎駿監督とは同年、高畑勲監督よりほんの少し下の世代です。

富野監督はよく「高畑、宮崎に勝ちたいと思ってやってきたが、ついに敵わなかった」と自虐ネタのように話しています。

でも『めぐりあい宇宙』は、方向は全く違いますが、高畑、宮崎両監督の最良の作品と同じく、世界のアニメ史に光り輝く作品だと思います。

アカデミー賞などとは無縁だとしても。

 

富野監督は何処かで「世界で俺より編集がうまい人間はいない」と豪語していましたが、この作品を観ると納得せざるを得ません。

この非常に複雑な話をわかりやすく、しかもすべてのカットが名場面という密度で編集されています。

本当にもう、神がかり的。

 

また、「戦い」を描いたアニメは無数にありますが(というか、なぜか戦いばかりなのですが・・・)、これほど、戦争の虚しさを実感させるものは観たことがありません。

 

物語の終盤で、主人公(アムロという青年)が属する連邦軍が、最後に敵陣の前線基地に総攻撃をかけるのですが、お互い消耗戦で、両軍たくさんの人が死んでいき、疲弊していきます。

主人公はガンダムという人型兵器を操縦するエースパイロットですが、どれほどのパイロットも、戦局ではただの一機でしかありません。その一機で戦争が終わるわけもない。

 

映画の最終盤、アムロとシャアという、戦争する両陣営のエースパイロットが、最後は双方の搭乗機が大破し、それを捨てて、銃で撃ち合い、剣で斬り合う白兵戦となるシーンがあります。

個人としてみれば、目の前にいる相手を殺す必要なんて何もないのに、お互い大切な人を戦争で殺され、今さら後戻りできないのが痛ましい。

 

アムロ側の連邦軍の一員であり、シャアの妹でもあるセイラという女性が駆けつけ「2人が戦う理由なんてないのよ!」と叫ぶのですが、観ている側も本当にそうだ、もうやめてくれと感じます。

 

この映画で一番すごいと思うのは、ララァという、敵側の女性兵士と戦闘する場面です。

戦いの中でアムロが図らずもララァ機を撃墜してしまうのですが、その一瞬、二人の精神が交流します。

その描写がとにかくもう・・・

波や光で象徴的に描かれるそのシーンは、井上大輔の挿入歌と相まって、一生忘れられない衝撃があります。

こんな前衛的な表現を、当時は子供向けとされていたロボットアニメで敢行したのがすごい、というかもはや蛮勇。

個人的には、キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」(1968年)やタルコフスキー監督の「惑星ソラリス」(1972年)の影響を感じます。

 

他にもこの作品には語り継がれるべき多くのものがあり、とても書き尽くせません。

自分にとっては、この手の作品としてこれ以上のものはもう現れないだろうと思っています。