日本は本当に貧しくなったのか | 今日も花曇り

今日も花曇り

読んだ本や考えたこと、仕事について。

よく、日本は貧しくなったと言われます。

 

増えない収入、円安、GDPの低下、その他いろいろ・・・。

最近も、PS5が多くの人には手が届かない価格に大幅値上げされ、ソニーはもう日本市場を見捨てたなどと話題になりました。

確かに、貧しくなった気がするニュースをよく目にします。

 

でも私は、必ずしもそうは思っていません。

別に私は、精神論を述べるのではありません。

所得やGDPの数値は、豊かさのごく一部を数字にするに過ぎないというだけです。

 

ロバート・F・ケネディが大変心を打つ言葉で述べています。

 

「アメリカのGNP(国民総生産)はいまや年間8000億ドルを超えています。
しかし、そのGNPの内訳には、大気汚染、タバコの広告、高速道路から多数の遺体を撤去するための救急車も含まれています。
玄関のドアにつける特製の錠と、それを破る人たちの入る監獄も含まれています。
セコイアの伐採、節操なく広がる都市によって失われる自然の驚異も含まれています。
ナパーム弾、核弾頭、都市の暴動で警察が出動させる装甲車も含まれています。
それに・・・子供たちにオモチャを売るために暴力を美化するテレビ番組も含まれています。
それなのに、GNPには子供の健康、教育の質、遊びの喜びの向上は関係しません。
詩の美しさ、結婚の強さ、市民の論争の知性、公務員の品位は含まれていません。
われわれの機知も勇気も、知恵も学識も、思いやりも国への献身も、評価されません。
要するに、GNPが評価するのは、生き甲斐のある人生をつくるもの以外のすべてです。
そして、GNPはアメリカのすべてをわれわれに教えるが、アメリカ人であることを誇りに思う理由だけは、教えてくれないのです。」

(1968年3月18日のカンザス大学での演説の一部)

 

現代に置き換えれば、バブル景気で生み出される莫大な不動産の取引額、ただ一瞬の興味を引くために作成されるコンテンツと、そこ投入される莫大な広告費、そして、いつの時代も変わらない、天井知らずの価格のおびただしい兵器・・・。


それらは創出された冨としてカウントされますが、それで人間が豊かになるかといえば、否というほかないと思います。

 

実際、アメリカ経済は世界で独り勝ちのように言われますが、子どもと高齢者以外の世代で死亡率が増加しているといいます。

 

 

日本は貧しくなったと言われます。

それでも、スーパーには豊富に品物が並び、手ごろな価格の飲食店でも丁寧な接客とおいしい食事が提供され、街は清潔で、水道の水はそのまま飲むことができます。


思うのですが、日本のこうした「きちんとした仕事」は、数字としてGDPに反映されるわけではありません。

私は、上がらない賃金と価格のなかでも、値段以上のものを提供しようとする日本人の努力は、本当にすごいと思っています。

 

私は、あまりに数字ばかりを見ることの問題点をいうだけであって、だから日本は問題ないというのではありません。

反対に、娘の世代ではいったい日本はどうなってしまうだろうと、とても危機感があります。

 

でも私は、世間の後ろ向きの雰囲気は、貧しくなったこと自体というより、貧しくなったと感じる痛みからも来ているのではないかと思います。

これは、拝金主義、言い換えれば、行き過ぎた市場主義の弊害だと思います。

 

マイケル・サンデル教授はこの点

「あらゆるものが商品となってしまったせいで、お金の重要性が増し、不平等の刺すような痛みがいっそうひどくなった」

と言っています(『それをお金で買いますか 市場主義の限界』)。

まさにそうだと思います。

 

今の日本は、お金以外の評価基準がとても貧弱です。

信仰や思想の背骨が欠けているからなのでしょうか・・・

 

数字やデータ、それに紐づけやすいお金といったものは、事実のごく一部を、カウントしやすい形で取り出したものにすぎないという当たり前のことを、私たちはもっと意識してもいいと思います。