新版『夜と霧』(ヴィクトール・E・フランクル著、池田佳代子訳)~人生から問われるということ | 今日も花曇り

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アウシュヴィッツから生還した精神科医の著した記録として、大変有名な本です。

今回、初めて読みました。

単行本で本文157ページの短い本ですが、生涯持っていようと思った本でした。

 

 


読む前に勝手に抱いていたイメージとは異なり、この本は、アウシュヴィッツの悲惨さを告発した本ではありませんでした。

そして、だからこそ、世界的なベストセラーになったのだと思います。

 

なお原題は『EIN PSYCHOLOGE ERLEBT DAS KONZENTRATIONSLAGER in ...trotzdem Ja zum Leben sagen』で、日本語訳としては「ある心理学者の強制収容所体験-それでも人生にイエスという」、

英語版はさらにニュアンスが異なり、『Man's Search For Meaning: An Introduction to Logotherapy』(人生の意味の探求: ロゴセラピー入門)とのことです。

 

この本は、強制収容所での悲惨な生活の中で著者がたどり着いた、人間と人生についての洞察を明らかにした本でした。

それは体験記ではなく、思想書といったほうが近いと感じます。

 

著者は、なぜあれほどの非人間的な行いがなされたのか、その責任はどこにあるのか、怒りや嘆きの言葉を、ほとんど述べていません。

その点が、こうした体験の記録としては、特異だと思います。

著者は、悲惨極まりない収容所での生活を淡々と描写しながら、それが人間の内面にどんな影響を及ぼすのかを観察し続けます。


悲惨な日収容生活のなかで、自分が存在する意味を見失った人は「あっというまに崩れてい」き、命を落としたといいます。

著者は医師として、自分と仲間をその「絶望から踏みとどまらせる」ために考え抜き、本書の終盤で次のように書きます。


「ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。
わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。
哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。

(中略)

生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。」(129-130頁)

 

私たちは絶望的な状況に陥ったとき、「こんな人生に何の意味があるのか?」と問い、生きる意思を失ってしまいます。

しかし、その問いの立て方が誤りだというこの部分が、フランクルの思想の核心なのだと思います。

この言葉は非常に奥行きがあり、やや修辞的でもあるので、その意味を正確に把握することは簡単とはいえません。

 

この本を読んだ感想として、よく「どんな人生にも意味があることを教えられた」というようなものを見かけますが、少なくとも本書の言葉とは違う。

そうではなく、生きることの意味を問うこと自体をやめろ、というのです。

 

では、わたしたちは人生から、いったい何を問われているというのでしょうか。

「正しく答える」とは、どういうことなのか。

 

この点、この本の中では、著者は必ずしも明確にはしておらず、

 

「この要請と存在することの意味は、人により、また瞬間ごとに変化する。

したがって、生きる意味を一般論で語ることはできないし、この意味への問いに一般論で答えることもできない。」

 

というにとどまっています。

そのなかで、苦しみに直面した人間については、さらに次のように書いています。

 

「人間は苦しみと向きあい、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。

だれもその人から苦しみを取り除くことはできない。

だれもその人の身代わりになって苦しみをとことん苦しむことはできない。

この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引きうけることに、ふたつとないなにかをなしとげるたった一度の可能性はあるのだ。」

 

とても哲学的な表現ですが、忘れてはいけないと思うのは、これは哲学や宗教ではなく、強制収容所における現実の危機を乗り越えるために、著者がたどり着いた実践的な思想だということです。

 

「強制収容所にいたわたしたちにとって、こうしたすべてはけっして現実離れした思弁ではなかった。

わたしたちにとってこのように考えることは、たったひとつ残された頼みの綱だった。

それは、生き延びる見込みなど皆無のときにわたしたちを絶望から踏みとどまらせる、唯一の考えだったのだ。

わたしたちは生きる意味というような素朴な問題からすでに遠く、なにか創造的なことをしてなんらかの目的を実現させようなどとは一切考えていなかった。

わたしたちにとって生きる意味とは、死もまた含む全体としての生きる意味であって、「生きること」の意味だけに限定されない。

苦しむことと死ぬことの意味にも裏づけされた、総体的な生きることの意味だった。

この意味を求めて、わたしたちはもがいていた。

(中略)

わたしたちにとって、苦しむことはなにかをなしとげるという性格を帯びていた。」

 

著者は、「まっとうに苦しむこと」は、「最期の瞬間までだれも奪うことのできない人間の精神的自由」だといいます(112頁)。

全てを、衣服も体毛も、名前さえ奪われた被収容生活のなかでは、苦しむこと自体を自分の存在意義の基礎にしなければ自分が崩壊してしまうほどの極限状態は、私のような人間には想像もできません。

 

現代の日本では、自分らしく、自分自身で人生をデザインすることがよいことであり、当然であるかのようにいわれます。

しかし、そんなことが考えられるのは、たまたま幸運にも今それが許される状況にある、というだけなのだと思い知らされます。

 

著者の思想は、私たちが通常考える生きる意味が全て奪われたとしても、「まっとうに苦しむ」ことで人間の尊厳を示すことができるという、非常に厳しいけれど、人に勇気を与えるものです。

 

でも、著者は人間の弱さについて、こんなふうにも書いています。

たとえば、偉大な人間を描いた映画を観たとしても、人は映画が終われば

 

「近くの自販機スタンドに行き、サンドイッチとコーヒーをとって、今しがた束の間意識をよぎったあやしげな形而上的想念を忘れたのだ。

ところが、いざ偉大な運命の前に立たされ、決断を迫られ、内面の力だけで運命に立ち向かわされると、かつてたわむれに思い描いたことなどすっかり忘れて、諦めてしまう・・・。」

 

私も結局は、こうした人間の類なのではないかと、自信を失います。

この本でいえば、苦しみの中で動物的な惰性に逃げてしまう人間なのではないかと・・・。

 

それでも、こうした思想は、自分がその極限に追い込まれたとき、自分を人間にとどめておくための拠り所になってくれると信じたいと思います。