今年立ち上げた職場での読書会で、ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』をとりあげました。
今までは、何度も読んでようやく著者の意図するところを読み取ることができるような本については、一人で問いを繰り返すだけでした。
それがこうして他の人の意見や感想を直接聞くことができ、得難い機会だったな、本当に読書部を作ってよかったなと思いました。
本について話し合うなかで印象的だったのが、
「自分は、もともと生きることに特別な意味はない、自分が存在することはただの偶然だと思っているので、生きる意味を突き詰めて考える著者の言いたいところについて、理解が難しい」
という趣旨の感想を述べた人が複数いたことでした。
わかってはいたのですが、ああやっぱりそうなのかと思いました。
たぶん、どちらかといえば、こうした感覚の人の方が多数派なのではないかと思います。
そしてこの点が、自分とは決定的に異なると感じます。
私は、自分や世界がこのように存在することが単なる偶然だと、どうしても思えない、または、思いたくないタイプの人間です。
それは、自分という存在が、私たちが知る物理法則に照らすとあまりに奇妙な存在(自由意志や、あまりに高度な自己組織化の問題)であることもあるし、物理法則がこのように定められているのはあまりに整然としすぎているし、何より、こんな残酷な世界で生を受けて苦しんだ人の人生が「ただの偶然」で「無意味」だったとすれば、それはひどすぎる、という思いがあるからです。
でも、上記のように、人生は無意味だと前提しても何も問題なく生きられる人が多数だとすれば、私のような考えこそ無意味で、苦しみのもとになるだけなのかも、とも思います。
フランクルのいう「人生の意味を問うことをやめ、人生から問われていることを知るべきだ」という主張は、おそらく、上記の二つの考えのいずれでもない、新たな考え方を示すものなのだと思います。
ただ・・・やっぱり私は「どうして生きるのか」と問うのをやめられないのです。
たぶん死ぬまでやめないと思います。
そして、死ぬときになっても「結局何もわからなかった」と思うかもしれません。
でも、問いをやめるよりは、そのほうがマシだと思っています。