「雨ニモマケズ」(宮沢賢治) | 今日も花曇り

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宮沢賢治(明治29年8月27日 - 昭和8年9月21日)のとても有名な作品に、「雨ニモマケズ」があります。

若いころ、『春と修羅』や『銀河鉄道の夜』に強く惹かれましたが、「雨ニモマケズ」は何だかよくわからず、素通りしていました。
最近この年齢になってからは、「雨ニモマケズ」が、なぜかずっと気になるようになりました。

私の「雨ニモマケズ」のイメージが大きく変わったのは、この作品が書きつけられた手帳の写真を見てからです。
見開きの手帳の右側には作品の最後の部分「ホメラレモセズ クニモサレズ サウイウモノニ ワタシハナリタイ」の文字があり、その左側ページの全体に、

南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩

の文字が大きく書き付けてありました。「南無妙法蓮華経」の文字が中央にことさらに大きく、これは簡略化された「十界曼荼羅」というものだそうです。

「雨ニモマケズ」の、俗世から離れて欲無く暮らす人の穏やかなイメージと、頁いっぱいに書き付けられた曼荼羅の文字があらわす熱烈な信仰との対比が鮮烈で、衝撃を受けました。

宮沢賢治が法華経に深く帰依していたということは、なんとなく聞いたことはありました。
しかし、肉筆の「南無妙法蓮華経」の大きな文字からは、作者の信仰が、私がぼんやりと思っていたようなものではなく、もっとずっと激しいものだったことがうかがえました。

この作品を初めて読むときには、いったい何を描いている文章なのか、わからないと思います。主語もありません。
ですが、最後の「ワタシハナリタイ」で、初めてこれが作者の「願い」であったことがわかります。
不意をつかれて読み返すと、改めて静かな衝撃を受けます。
この手帳は、「丈夫ナカラダヲモチ」「病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤ」ることなどできない、晩年(昭和6年11月頃)の病中に書かれたものだからです。

「雨ニモマケズ」を書いた宮沢賢治の信仰や心情を知る手掛かりに、同じ手帳に書かれた詩があります。
少し長いですが、引用します。

この夜半おどろきさめ
耳をすまして西の階下を聴けば
ああまたあの児が咳しては泣き
また咳しては泣いて居ります
その母のしづかに教えなだめる声は
合間合間に絶えずきこえます
(中略)
あの子は女の子にしては心強く
凡そ倒れたり落ちたり
そんなことで泣きませんでした
私が去年から病やうやく癒え
朝顔作り菊を作れば
あの子もいっしょに水をやり
時には蕾ある枝もきったりいたしました
この九月の末私はふたたび東京で病み
向ふで骨になろうと覚悟してゐましたが
こたびも父母の情けに帰って来れば
この子は門に立って笑って迎へ
また階子から
お久しぶりでごあんすと
声をたえだえ叫びました
ああいま熱とあへぎのために
心をととのへるすべをしらず
それでもいつかの晩は
わがないもやと云って
ねむってゐましたが
今度はただただ咳き泣くばかりでございます
ああ大梵天王
こよひはしたなくもこころみだれて
あなたに訴え参ります
あの子は三つでございますが
直立して合掌し
法華の首題も唱えました
如何なる前世の非にもあれ
ただかの病かの痛苦をば
私にうつし賜わらんこと


自分は病のために何もできない中で、どうか、幼い姪の病の痛苦を自分に移してほしいと願うのです。

「はしたなくもこころみだれて」と言うのは、「けつしてひとりをいのつてはいけない」(『春と修羅』「青森挽歌」)という信条、信仰に背くから、ということなのでしょうか。

それでもいのらずにいられない作者の思いを知ると、「ワタシハナリタイ」という願いが、どれほど深い断念と信仰から生まれたものなのかがわかる気がして、本当に胸が詰まります。

しかしそのような「願い」であることが、少なくない批判をも生んだようです。

「『雨ニモマケズ』は羅須地人協会からの全面的な退却であり、『農民芸術概論要綱』の理想主義の完全な敗北である。そしてこの作品は賢治がふと書き落とした過失のように思われる」(中村稔『宮沢賢治』)

「よだかはそのあと必死の力をふりしぼって遂に独力で昇天をとげたが、かつてはその作品を書いた当人である詩人の方は、よろめき落ちた落胆と失意の底で水のように心をむなしくしながらその無力感をカタカナの箴言にしみとおらせるばかりだ」(天沢退二郎『宮沢賢治の彼方へ』)

「私もまた、このメモは『病の中でふと書き落とされた過失』ではないかと思う。《共苦》と《無償性》という倫理・祈りの裏にある虚妄をみざるを得ないからである。もし『雨ニモマケズ』が人をうつとするならば、その根底にある不幸、この虚妄さを最後まで生きようとした不幸を誰もが共有するからではなかろうか」(山内修『宮沢賢治研究ノート』)

これらは、「雨ニモマケズ」が賢治の現実生活での挫折から生まれた、無力な願望にすぎないと考えるものです。

しかし作者自身は、批判者が挫折や敗北だと指摘する羅須地人協会の活動等について、それ自体が驕りであったと厳しく自省し、退けています。

あゝ今日こゝに果てんとや
燃ゆるねがひはありながら
外のわざにのみまぎらひて
十年はつひに過ぎにけり

(「疾中」から)

血浄く胸熱せざるの日
身自ら名利を離れたりと負し一切を童子嬉戯(どうじきぎ)の如くに思い
私(ひそか)にその念に誇り酔ふとも
見よ四大僅に和を得ざれば
忽ちに諸(もろもろ)の秘心斯の如きの悪相を現じ来って汝が脳中を馳駆し
或は一刻或は二刻或は終に唯是修羅の中をさまよふに非ずや

(「手帳」から)

世俗的には賢治の活動が最も充実していた時期を、「外のわざ」にのみ力を注ぎ、しかもそれを自分では童子嬉戯(子供の戯れのように純粋で無私な行い)であると密かに誇っていた、驕りであったと反省します。

だから他人がどう思うとも、賢治自身にとっては、そうした外的な活動ができなくなったことは撤退でも敗北でもなかったはずと思うのです。

宮沢賢治は、何より詩人です。言葉によって生きた人です。その言葉によって、百年近くも後に生きる人間が、少しはよく生きてみようという勇気を現実に与えられるのですから、どうしてこの作品が過失や虚妄でありうるでしょうか。

この作品で私が一番感動するのは次の箇所です。

ヒデ(ド)リノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
デクノボートヨバレ


確かに私も、当初はこの部分に諦めや孤独を感じ、痛ましく思え、それにかえって打たれました。

ただその後、『疾中』(昭和3年8月~昭和5年)の中には次のような句を持つ詩があるのを知りました。

たゞひたにうちねがへるは
すこやけき身をこそ受けて
もろもろの恩をも報じ
もろびとの苦をも負ひ得ん

さてはまたなやみのなかと
数しらぬなげきのなかに
すなほなるこゝろをもちて
よろこばんその性を得ん


すでに、「雨ニモマケズ」の思想がそのまま現れているように思えます。
そして、人々の苦を引き受け、悩みと嘆きの中でなお喜ぶ心を持ちたいと言っています。

これが法華経から出るものなのか、私にはわかりません。
ただ、私の乏しい理解では、仏教では基本的に悩みや嘆きは止滅すべきものと思っていたので、その中にあってなお喜びたいという思想は、私は知りませんでした。

失意の詩人に対する私の安い同情や共感など、とうに乗り越えたところに作者自身はいたのでした。

「雨ニモマケズ」が示すのは、諦めや無気力などではなくて、宮沢賢治が本当になりたいと願った、突き詰めた自分の姿ではないかと思います。
それはもう特定の教義や、文学からもなかば離れた、もっと自由なものだったのかもしれません。

最後の数行は漢字すら混じらずカタカナだけで書かれて終わる「雨ニモマケズ」を読むと、そんなふうに感じます。