今の事務所は、執務時間中に面談室を使って、オーストラリア人の先生から英語の個人レッスンを受けられます。レッスン代はかかるのですが、その一部を事務所が補助してくれます。
そうやって英語のレッスンを受けられること自体ありがたいのですが、その先生がとても博識で、共謀罪から投資からゲス不倫まで、ものすごく話題が豊富なので、いろんなことを教えてもらえ、勉強になります。
その中で、いつだったか、いかに経済学が空虚な学問かという話になり、先生が若い頃に読まれた本を薦めてくれたことがありました。それがこの本でした。
今の仕事に変わってから、とくに子どもが生まれてからは忙しくて、読書の時間がほとんどとれない今のような状況の中でも、このような本に出会えて幸運だったと感じています。
著者のエルンスト・シューマッハー(1911-1977)は、ボン生まれの経済学者。この本は1973年に出版 されてベストセラーとなり、世界的な反響を呼んだそうです。
私が買った講談社の文庫版も、第45刷(2013年、なお第1刷は1986年)となっていました。日本でも多くの人が読んでいるのですね。
ちなみに私が大学時代に好きだった遊佐未森のアルバムにスモールイズビューティフルというタイトルのものがあったのですが、ここが由来だったのですね。今になって知りました。
さて、本書の内容は、経済至上主義への警告です。
そう書いてしまえば月並みですが、読んだ人は、著者の主張が哲学的・宗教的な核から生じていて、人間に対する深い信頼と愛情に基づいていることを感じ、感動すると思います。
この本がこれほど著名になった直接の理由は、出版されたまさにその年、オイルショックが起きたことでした。この本が「現代のいちばん重大な誤り」として冒頭で指摘したのが、資源を食いつぶしながら発展しようとする現代経済が 必ず行き詰まるということだったのです。
そのため著者は「現代の預言者」の扱いを受けましたが、著者は本書で繰り返し、現代の西洋文明のような生活様式は、古今のあらゆる英知が否定していることを指摘しています。著者はたぶん予言をしたつもりはなく、古くからの戒めを改めて述べただけだったのかもしれません。
この本が扱っているのは、エネルギーから教育の問題まで非常に広範なので、全体を要約するのは困難です。ですが、訳者の一人である小島慶三氏のあとがき「シューマッハーの人と思想」がその困難な要約をすばらしくうまく行っているので、本書全体の紹介はそちらでということで、私は個人的に感銘を受けた、著者の思想がにじみ出る部分について書きたいと思います。
「第一部 現代世界」の「第二章 平和と永続性」では、平和と経済の関係が書かれています。
「私がいいたいのは、平和の礎を現代的な意味での繁栄を行きわたらせることで築くことはできない、ということである。なぜならば、その繁栄は、かりに達成されたとしても、そのためには貪欲や嫉妬心といった、知性や幸福や平静を損ない、はては平和を好む心を殺すような衝動をかきたてざるをえないからである。」
「人間を互いに」争わせる当の原因である貪欲と嫉妬心を意識的にあおることで成り立っている経済を基礎にして平和を築こうというのは、二重の幻想である。」
どうすれば物理的、精神的な本当の平和が達成できるかは、とても困難な課題で、これに取り組むには大変な労力を必要とします。
そこで、とりあえず目の前の利益を追求してさえいれば、いつかは皆が裕福になり、争いはなくなるのだと考えることは、人間の倫理的な負担を軽くします。でも、それではダメだと、著者は言うのです。
「経済の観点からすると、英知の中心概念は永続性である。われわれは永続性の経済学を学ばなくてはならない。不合理な事態に陥ることなしに、長期間続くことが確 かでない限り、なにごとも経済的に意味がない。限定された目標に向かっての「成長」はあってもよいが、際限のない、全面的な成長というものはありえない。ガンジーが説いたように、「大地は一人ひとりの必要を満たすだけのものは与えてくれるが、貪欲は満たしてくれない」というのが当たっていよう。」(以上、第一部・第ニ章)
私は原文を読んだわけではないのでわかりませんが、おそらくこの「永続性」は、近年言及されることの多い「持続可能性(sustainability)」と同義ではないかと思います。それが英知の中心だと、著者のような人はこんなに以前から指摘していたのでした。
「際限のない、全面的な成長というものはありえない」とは、人間が有限な世界に生きている限り、考えてみれば自明のはずです。それでも人間 は、自分だけは、自分の属する組織だけは、と考えてしまうようです。
私自身は、いまも、社会は「成長病」から抜け出ていないと感じます。
あらゆるところで、「成長、成長」のかけ声ばかりが耳につきます。でも、成長とは何なのでしょうか。そしてその成長は、何のためなのでしょうか・・・。
「民主主義、自由、人間の尊厳、生活水準、自己実現、完成といったことは、何を意味するのだろうか。それはモノのことだろうか、人間にかかわることだろうか。もちろん、人間にかかわることである。(中略)経済学がこの点をつかめないとすれば、それは無用の長物である。経済学が国民所得、成長率、資本算出比率、投入・産出分析、労働の移動性、資本蓄積と いったような大きな抽象概念を乗り越えて、貧困、挫折、疎外、絶望、社会秩序の分解、犯罪、現実逃避、ストレス、混雑、醜さ、そして精神の死というような現実の姿に触れないのであれば、そんな経済学は捨てて、新しく出直そうではないか。」(第一部・第五章「規模の問題」))
「第二部 資源」では、土地利用や原子力といった現実的な問題が扱われますが、その第一章が「教育―最大の資源」です。
人間こそが、決定的な要因であるという著者の考えが表れています。そして問題の根本も人間の中にあるのだから、教育が重要だということになります。
しかしその教育において、最も大切なことがおろそかにされていると指摘します。
教育は「価値観、つまり、人生いかに生きるべきかについての観念を伝えなくてはならない。ノウハウを伝えることも必要には違いないが、それは二義的なことである」といいます。
「世界をいかに体験し解釈するかは、いうまでもなく、われわれの精神の中にある観念の質にいちじるしく左右される。その観念が貧しく、力弱く、上滑りでまとまりがないと、その人の生も生彩を欠き、魅力もなく、卑小で混乱したものになるだろう。」
その観念が貧しく、力弱く、上滑りでまとまりがないとは、まさに今の日本の現状を指摘されているようで、がっかりします。
「精神が一揃いの―あるいは道具箱一杯の―強力な観念を世の中のできごとにあてはめることができないとすると、世の中は精神にとって、一つの混沌、つまりバラバラの現象や意味の ないできごとの寄せ集めとして現われるほかはない。そのような精神をもった人間は、いってみれば地図をもたずに、道標も案内図もなく、文明のかけらも見当たらぬ異国を行く旅人に似ている。なにごとも彼には無意味で、生き生きとした関心を呼び起こさない。ものごとを解く鍵がないのである。」
今の(あるいは過去も)日本の教育で、このような点が本当に意識されていることはほとんどないと思います。少なくとも、私はそういう教育は受けませんでした。
「道徳」や「倫理」という科目がありましたが、はっきり言って、教える方も教わる方もオマケのような扱いでした。教わる方は、生きる上での本当に深刻な問題にはまだ直面していない場合がほとんどだし、成績や受験にもまず関係がない。教える方も、一体何をどう教えればよいのかわからないと思います。
「中世後期の古典・キリスト教文化がもたらしたのは、きわめて包括的で、驚くほど首尾一貫した記号解釈、つまり人間と宇宙および両社の関係に関する非常に精緻な基本的観念の体系であった。しかしながら、この体系は崩れて断片となり、混迷と疎外感を後に残した。」
著者は東洋思想や神秘思想の研究にも打ち込んだそうですが、最終的には1971年の60歳の時、カトリックに入信したそうです。
こうした信仰と哲学についての検討が全面的に展開されるのは、さらに後の著作「混迷の時代を超えて」(A guide for the perplexed, 1977)においてでした。私自身は本当はこちらの著作の方が印象が強かったのですが、内容からすると、読者を選ぶかもしれません。
著者は本書で、経済学の観点から、かなり具体的な提案も行っています。しかし、著者が本当に問題にしているのは、極めて形而上的なことです。
著者は、ことの根本的な原因は、19世紀的な思想(進化思想、唯物思想、相対主義思想など)がそれまでの人間の英知を追い出してしまったために、その空洞に誤った思想が流れ込んだことだと考えています。
この指摘は、日本人である私たちには、別の重みと深刻さがあるように思えます。
現在の日本には、歴史的な経緯からして、私たちがよって立つ価値体系が何も、またはほとんど存在しないからです。何を人生の基準にしたらよいかがわからないのです。
そのため、社会的な成功者くらいしか模範にするものがなく、実はその成功を評価する根拠は何なのかわからず、その成功すら、すべての人が同様にできるわけがないのに、そのモデルに適合するか否かで勝ち負けを決める風潮が強い。
著者の批判する経済至上主義が、それに対抗する価値体系を持たない日本のような国で最も発展するのは、自然に思えるのです。
著者は原子力についても警告を発しています。
「私の主張はきわめて単純なものである。つまり、何十億トンという化石燃料の代わりに原子力を使えという提案は、燃料問題を解決しようとして、恐るべき規模の環境問題、生態系の問題を作りだすものだということである。(中略)それは一つの問題を別の平面に移 して解決をはかろうとし、実際にははるかに大きな問題を抱えこむことを意味する。」(第一部・第一章「生産の問題」)
「新しい「次元」の危険のもう一つの意味は、今日人類には放射性物質を造る力があるのだが―現にまた造ってもいる―いったん造ったが最後、その放射能を減らす手だてがまったくないということである。(中略)だが、半減期の長さがどうであれ、放射能は半永久的に残るわけで、放射性物質を安全な場所へ移す以外に施すすべがない。それにしても、原子炉から出る大量の放射性廃棄物の安全な捨て場所とは、いったいどこであろうか。地球上に安全だといえる場所はない。」
「いちばん大きい廃棄物といえば、いうまでもなく、耐用年数を過ぎた原子炉である。原子炉を使える機関が二十年か二十五年か、ないしは三十年かといった些末の経済問題については議論がやかましいが、人間にとって死活の重要性をもつ問題はだれも論じていない。」(以上、第二部・第四章「原子力―救いか呪いか」)
しかし、チェルノブイリ、福島と、結局事故は起きてしまいました。
これらの指摘は、本書の出版から40年以上が経過した現在でも、何ら本質的に解決されていません。いかにそれが解決困難な問題か、いかにその技術が無責任なものだったかがわかります。
心ある人々がいかに警告しても、実際の被害を被るまで(場合によっては被った後でも)わからないのが私たち大衆だとすると、暗澹たる気持ちです。
ところで、量子力学の創始者の一人であるウェルナー・ハイゼンベルク(過去時事「現代物理学の思想(W.ハイゼンベルク著) 」 参照)は、シューマッハーの義理の弟にあたるとのこと。知りませんでした。
ハイゼンベルクもまた、世界について、自分の専門領域だけにとどまらない深い思索をした人でしたが。二人が世界どのような会話をしていたのか、聞いてみたかったと思いました。
それにしても、この本より前に集中的に著作を読んだ吉田満について書いた記事を見たら、昨年9月!
内容のある本に巡り合い、それをきちんと読むということは、もう1年に1回くらいが限界のようです。そうすると、生きている間にあと数十冊。本棚に並べたら1、2段にすぎません。
短いですね。
まだまだ、読ん知りたいことはあるのですが。