働くことがイヤな人のための本 仕事とは何だろうか(中島義道 著) | 今日も花曇り

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読んだ本や考えたこと、仕事について。

ずっと前に一度読んだことがある本です。



著者の言葉が先日読んだ「世間の目」(佐藤直樹著)で引用されていたり、今また自分が仕事に迷っていたりしたので、改めて読みました。
中島義道氏は、哲学者です。

中学生のころ、母親から「高校にいる間に将来やりたいことを見つけなさい」と言われた記憶があります。
でも結局それは見つからず、大学でも見つからず、就職した会社でも見つからず、見つかったと思ったこともありましたが勘違いで、苦心惨憺のすえ弁護士になった今も、正直に言って、やはり見つかっていないという気持ちがあります。

自分は何をしたいのか、何ができるのか、何をすべきなのかを、いつもいつも迷っています。
私もとうとう四十になりましたが、「惑わず」とは、到底いきません。

私は社会人になりたてのころ、生きることに本当に迷ってしまったことがありました。
その時、出張先の大阪でふらっと入った古本屋で偶然に出会ったのが、著者の「人生を<半分>降りる」という本。
そこには、私がウンウン悩んでいたことが、ほとんどそのままの形で述べられていて、心底驚いたのでした。
私は感銘を受けて、著者の私的な哲学道場「無用塾」に、ごく短期間ですが参加したこともありました。

さてこの本ですが、題名だけだと、仕事に関するいわゆる自己啓発本のようあですが、全く反対です。
著者は、圧倒的多数の人々は仕事において二流、三流に甘んじて他者に負け続けるのであり、そもそも仕事自体、人生において最終的には価値はないと言います。
自己啓発本を期待した読者にはとんでもない内容です。

「運も才能もなく、どうせ死んでしまう自分がなぜ仕事をしなければならないのか」という、困難な疑問が、本書の主題です。

この本では、仕事に迷う仮想の四人(引きこもりの若者、自己表現したいと願い続ける30過ぎのOL、だらだらと仕事をするだけの生き方に不安な40過ぎのサラリーマン、仕事を全うして引退したが虚しさを感じる老年男性)が登場し、彼らと著者との対話、座談会のような形式で話が進みます。
話し言葉で読みやすくはありますが、内容は哲学対話そのものです。

著者の結論はこうです。
生きることにおける本当の仕事は、真実をめざすこと、すなわち哲学であり、世間で言う仕事はその準備である。
圧倒的多数の人々は、自分の仕事を本当の自己実現の手段とする才能も運もないのであって、その理不尽を正面から見つめることこそ、哲学的思考を鍛えてくれる。だから、ともかく仕事をしなければならない。

確かに、半分くらいは納得します。
でもこれは、哲学こそ人間の本当の仕事だという前提があっての話なので、そうは思えない人にとっては本当の納得は難しいでしょう。

私も若いころ、哲学こそ自分の求めていたものだと考えた時期がありました。
でも、哲学はどこまで行っても、真理に到達するわけではなく、その態度そのものをいうにすぎないと思うようになりました。
それは、自分の理性という、とても制約の大きな手段によらなければならない時点で、仕方ないことのように思えます。
だから私は、哲学という、真剣ではあるけれども、答えの出ないことがわかっている問いを問い続ける営みに最高の価値をおくことは、ためらわれます。

著者は、いずれ死んでしまうという理不尽から目をそらさないことの大切さを、繰り返し強調します。
そうであるならば、私は、世界や人間がこのように存在することの不思議さについても十分に噛みしめるべきだと思うのです。
そこには、本当に目的や意味はないのでしょうか。

私にはわかりません。ただ、私はそれを信じたい気持ちです。
そうでなければ、こんなひどいゲームはやってられません!
そしてもし、世界が在ることに何かの意味や目的があるならば、哲学ができなくても、ただ日常をひたすら生きるというつまらない生活にも、必ず意味があると思います。

本書には、次のような文章があります。
私もこれは、本当にそう思います。

「乏しい才能しか与えられず、たえず理不尽によって翻弄され、他人からはまったく評価されず、むしろ徹底的に軽蔑されつづけて死に至ったという人でも、彼(彼女)がフト生まれ、生きて、そして死ぬということの単純な荘厳さは変わらない。」

だからこそ、真実を知るために生きたかどうかということもまた、人生の荘厳さには関係ないのではないか。
真実を知りたいと思い続けること、それに最終的な価値を置くこともまた、ひとつの決め付け、執着にすぎないのではないか、と思ってしまうのです。

でも、理不尽から目をそらさない、という著者のいつも一貫した姿勢には、共感します。
次の言葉など、やはり勇気付けられるのでした。

「この社会とは「理不尽」のひとことに尽きるということだ。(中略)つまり、何ごともコウと決まらないのだ。何ごとも正確には見通せないのだ。割り切れないのだよ。これがすなわち人生なのであり、とすれば生きようとするかぎり、その中に飛び込んでいくよりほかはない。だが、考えようによっては、こういう理不尽な社会とはなかなか味わい深いものじゃないか。おとぎ話のように、あるいは校長の訓話のように、すべて努力する者が報われる社会、すべてずるい者が没落する社会は、なんとも味気ないではないか。誰も無念の涙を流すこともなく、成功者を恨むこともなく、歯ぎしりすることもない、そんな社会は生きるに値しないではないか。ただ誠実にやっていれば報われる社会、そんな低級な社会はおとぎ話の中だけでたくさんだ。理不尽であるからこそ、そこにさまざまなドラマを見ることができる。そこに、さまざまな人間の深さを見ることができる。目が鍛えられ、耳が鍛えられ、思考が鍛えられ、精神が鍛えられ、からだが鍛えられる。」