「コンタクト」(カール・セーガン著) | 今日も花曇り

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先日「インターステラー」を観てからなんとなくSFづいてしまい、カール・セーガンの小説「コンタクト」と、同名の映画化作品を観ました。

原作小説の方は、とてもよい、印象的な作品でした。たぶん将来もSFの古典のひとつに数えられるのではと思えました。著者はこれが初の小説とのことですが、とても信じられません。文庫で上下巻になる長編なのに全然飽きることがありません。ハードSFとされる内容なのに家族の描写なども繊細です。頭のよい人は何でもできるんですね・・・。
一方、映画は残念ながら今一つ。

カール・セーガンは著名な天文学者で、私以上の年齢の人にとっては「Cosmos」の著者として記憶に残っているのではないでしょうか。

また、セーガンはパイオニアやボイジャーに積み込んだ地球外生物へのメッセージの企画者としても有名です。

小説の内容は、あるとき地球外生命からのものと思われる電波を受信し、それを解読したところ、人間をどこかへ転送する装置の設計図。世界的大事業としてそれを完成させ、選ばれた数名が転送されて、そのメッセージを送信した存在に遭遇する、いわば「未知との遭遇」もの。SFの王道ですね。

この作品で特徴的なのが、そうしたメッセージを受信した際の人間の反応の描写に力が注がれている点です。ことに宗教と政治について、非常に多くの記述がなされています 。

また、異星人が私達に接触するとすればどのような方法が合理的かが検討されているのも作品にリアリティを持たせています。巨大な宇宙船で飛来するなんてとても費用にあわないということです(最も近い恒星からだって光速で何年もかかるのですから!相対論効果で乗員はそこまでの時間はかからないでしょうが)。

小説の中で最も印象深いのが、そうした知的生命をさらに超えた存在があり、それは自己の存在の証明をある数学的事実の中に組み込んでいるのではないか、というアイディアです。これは(現時点では)セーガンが考えたフィクションには違いないのですが、さりとて完全に否定はできないという巧みなものになっています。

作中、何度も科学者と神学者の論争が出てくるのですが、主人公の科学者は「神が本当に存在するなら人間に対して容易にそれを証明できるはずだ」と主張します。

その証明は、実は普遍的な数学的事実の中にあるのではないかというのは、物理学者であったセーガンらしい結論だと感じました。たぶん、セーガン自身そうあってほしいという願いだったのではないでしょうか。

この結論に、私はマンデルブロー集合のことを思い浮かべました。マンデルブロー集合は、ある条件を満たす複素数の集合なのですが、それを複素平面上にプロットすると、精緻で幻想的な図形が現れるものです。これは大変不思議な魅力がある図形で、一度目にしたら忘れられない印象を残します。とても偶然の産物とは思えない。これをある程度細かく描写するにはコンピューターが不可欠なので、まさにこの数学的存在は、人間がその存在を発見できる能力を備えるのを待っていたのだ、という気がしてきます。
典型的なマンデルブロー集合の描画画像を載せておきます。



映画は、いま書いてきたようなこの作品のよい点の大半を捨てているので、魅力が大きく薄れてしまっています。決して悪い映画ではないですが・・・。
こういう非常に真面目で、地味な、でも大作である原作を映画化する監督として、ロバート・ゼメキスというバック・トゥ・ザ・フューチャーの監督は本当に適任だったのか疑問が残りました。

こういう作品を読むと、もっとSFを真剣な分野として扱ってほしいと感じます。クラークの「幼年期の終わり」、レムの「ソラリス」、この「コンタクト」のような作品でなされている人間と世界についての検討は、娯楽や気晴らしのためではなく、とても真剣なものだからです。人間について考えるとき、私たちが観察可能な範囲の社会や、自分の人生での出来事についてだけの考察では、とても収まりきらないと思うのです。