再び、自己責任論が吹き荒れています。
本当は、そうした発言を実際にしている人は、多くはないのかもしれません。でも私は、そうした主張が何か漠とした日本の雰囲気を確かに代弁する気がして、失望よりももっと大きな、暗い気持ちになります。
「テロには屈しない」。その主張は正しいでしょう。しかしそれを主張する人が容易に自己責任論を持ち出すことに、私は大きな矛盾と強い嫌悪を感じます。
「テロには屈しない」。その理由は、どんな動機や目的があろうと、恐怖と暴力によってそれを実現する政治的勢力は、もう絶対に許されないからです。
そのテロリストが、まさにその絶対に許されない殺人を犯そうとするのを目の前にして、なぜやすやすと、犠牲を容認するようなことが言えるのでしょうか。殺すより殺されるのが悪いのだというような空気が、どうして生まれるのでしょうか。
「テロには屈しない」ことが彼らの生命よりも重いというなら、私たちはそれこそ生命をかけてでも、テロと戦わなければなりません。そして私たちは、本当にそうした局面に立たされる可能性がある世界に、確かに生きています。
テロには屈しないということと、殺人というテロを許さないというは、本来、思考としては完全に両立します。ただ、現実として厳しい選択を迫られることがあるのは私も理解できます。
しかし、いま聞こえてくる自己責任をいう声の多くは、そうした最後の選択の結果ではなく、想像と共感の努力の単なる欠如によるものではないのかと思えてなりません。
今回、テロリストは、日本人は日本人の生命を守ろうとするはずだ、という前提に立つからこそ、テロを実行しているはずです。しかし実は、少なくない日本国民は、人質の生命などそもそもどうでもよい、なぜなら自己責任だから、と考えているとしたら、テロの前提すら充たさない、戦慄すべき日本の状況だと思います。
それは、テロとの戦いなどよりはるか手前での、人の精神の荒廃と敗北を意味するように感じます。