今日も花曇り

今日も花曇り

読んだ本や考えたこと、仕事について。

たまたまアマプラで観たら素晴らしい作品で、出会いに感謝したアニメ、『蟲師』。

その「続章」(第2期)のオープニングに使われていた曲です。

 

 

『蟲師』のオープニングはかなり思い切っていて、画面は森の中の濡れた地面を思わせるイメージがずっと流れるだけで、それ以外のものが何も登場しないのです。もちろん、物語のキャラクターも。

ちなみに第1期のオープニングも同じように、木漏れ日が揺らめくようなイメージが映されるだけでした。

 

ものすごく珍しい作りだと思いますが、アニメを観た後では、それがこの作品にはふさわしいと感じます。

 

Lucy Roseというアーティストは全く知らなかったのですが、静かにささやくような声で、風や葉擦れの中で音楽を聴いているような、穏やかな気持ちになります。

ほとんどいつも山里が舞台の、このアニメによく合っていると思う。

正直、歌詞のほうはそこまでぴったり、というわけでもない気はしますが・・・。

 

上記YouTube動画のコメントを読むと、たくさんの外国の方が『蟲師』に触れてコメントしています。

自然と人間の関係や、失ったものへの人の思いなど、非常に繊細な物語だと思うのですが、こうした日本のアニメが海外の方にも響くのかと、驚くとともに嬉しい気持ちになります。

 

スピッツの草野さんもそうですが、私はこういう声質が好きなのかもしれません。

 

そういえば、どこかで読んだブログで、ブログ主さんが草野さんの声を「すりガラスのような」と書かれていて、なんていい表現だろうと感心したことを思い出しました。

 

眠るときは、音楽を聴きながらが多いです(それでなければ、読んだ本の感想を頭の中でまとめながらが多い)。


聴く曲はYouTube Musicのリストにしているので、いつもだいたい同じです。


そのうちの一曲は、J.S.バッハのコラール前奏曲『イエスよ、わたしは主の名を呼ぶ』BWV639です。



この曲は、先日投稿したスタニスワフ・レムの『ソラリス』



をアンドレイ・タルコフスキー監督が映画化した際に使われていて知りました。


もとはオルガンのために書かれた曲ですが、私はピアノによるもののほうが好きで、なかでもこの動画のソコロフの演奏が一番好きです。


静かで、三声のうちの内声の旋律が大変美しい曲です。

一定のテンポで静かに進む音楽の様子に、秩序と、バッハの神に対する信頼を感じる気がします。

何も信仰を持たない私までがそんなふうに感じることに、音楽の力と不思議さを思います。

もとになっているコラールの歌詞の意味など踏まえると、もっと別の受け取り方になるのかもしれませんが・・・。


自分でこんなふうにこの曲を弾くことができたらどんなにか慰められるだろうと思います。


バッハが好きになったのは高校生の時でした。その時からすれば、今は音楽の好みも随分変わってしまったのですが、バッハだけは変わらずに今もとても好きです。


スタニスワフ・レム(1921-2006)はポーランドの作家。

本書は1961年に出版された、レムのなかでもとりわけ有名なSF小説で、さらに、古今のSF作品のなかで、名作といえば必ず名前があがります。

若い頃に読んで、アーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』とともに強い感銘を受けました。

今回、読書会で課題本として自分が選んだため数十年ぶりに再読し、改めて、ものすごい作品だと感動しました。

 

 

ストーリーは

 

あるとき人間はゼリー状の海に覆われた惑星「ソラリス」を発見し、研究の結果、海自体がその惑星に住む唯一の生命で、知性を持っているらしいことがわかります。海が発する電気信号を解析すると、非常に高度な数学や物理学の理論と類似しているのです。

またソラリスでは、海上に人間が見たこともない奇妙な形態の巨大な構造物が海から生み出されては崩壊する、ということが繰り返されています。

ただそれに、どのような意味があるのか、人間は100年近く研究を続けますが、全くわからない。

心理学者ケルヴィンが新たに惑星海上の研究ステーションに派遣されたところ、ステーション内にいるはずのない人間が突然現れて生活し出すという現象に遭遇します。

海が、ステーションにいる人間の記憶を読み取り、人間と同じ外観を持ち思考もする存在を作り出しているようなのです。でもやはり、その目的は全くわかりません。

やがて、ケルヴィンの前にも、19歳のとき自殺した元恋人が現れる

 

・・・というもの。

 

巨大で、様々な視点から読むことができる作品です。

死んだはずの大切な人間が、外観も中身もそのままの実体として現れたときに人はどうするのかという痛ましい物語として読むこともできます。

タルコフスキー監督とソダーバーグ監督による二度の映画化は、ともに人間のそうした姿を描いた作品になっています。

 

でも、私にとってこの作品が特別なのは、人間の理解を超えた海の振舞いや形態、それに出会った人間の感動や畏れが、本当に自分が経験しているように感じられるためです。

 

特に海の振舞いについては、架空の「ソラリス学」からの知識が執拗なほどに書き込まれていて、本を読んでいる間はソラリスの海が当然に実在するものと思ってしまうほどです。

 

この暗い宇宙のなかで、確かに何らかの知性を持つ隣人にようやく巡り合ったのに、意思疎通する手段がない。

海の巨大さ、荘厳さに感動すると同時に絶望する、言葉にし難い感慨をおぼえます。

 

作品の最後の場面で、ケルヴィンは独り海に向き合い、海のほうへ手を伸ばします。

波はためらいながらケルヴィンの手を包み込み、手の形に変形して少しのあいだ戯れ、また波の中へ退いていきます。

自分がソラリスの海をまさに目の前にしているような、静かで茫漠とした、異様な感動があります。

この生命形成体の芽吹き、成長、展開には、その一つ一つを個別に取ってみても、またその全部をいっしょに合わせてみても、なにやら ── こう言ってよければ ── 用心深い、しかし臆病とは言えない無邪気さが現れていた。海は新しい形のものに思いがけず出会うと、我を忘れて急いでそれを知りたがり、把握しようと努力するのだが、謎めいた法則によって定められた一定の境界を超える恐れが出てくると途中で引きあげる羽目になるのだった。この身のこなしのすばしこい好奇心は、水平線を見渡す限りの輝きの中に広がる巨体とはあまりにも対照的で、なんとも言い難い感じを与える。私はこの海の巨大な存在感、規則正しい波に息づくその強力で無慈悲な沈黙を、これほどまでに強く感じたことはなかった。私は見惚れ、茫然となって、近よりがたいと思われていた無為と無感動の領域へと降りていき、ますます強まっていく強烈な自己喪失の感覚の中でこの目の見えない液体の巨人と一体になった。(本書385頁)

この部分を読むと、レム自身、ソラリスの海を前にして同じような感覚を抱いたに違いないとさえ思えてきます。

そういう意味で、二度の映画化はいずれも海を単なる背景・舞台装置としてしか扱っておらず、著者が強い不満を公にしていた気持ちもわかります。


この作品はフィクションですが、実際、観測可能な範囲でも数千億から数兆の銀河があるといわれる宇宙で、人間と全く異なる原理による知性がどこかに存在するのは、確実だと思えます。

自分の生きているうちには到底望めないとしても、いつか本当に、人間がそうした状況に直面することはあるでしょう

それを思うと、人間が考えている、生きがいとか倫理とか正義とかって、いったい何なのだろうと思います。

 

反対に、もしもソラリスが地球を調査したら?と考えます。

ソラリスは、地球こそ一つの生命であり、地表の生物は意味不明な付属品とみなすかもしれません。

そして地球が、何も役に立たない人間のような存在を創造したのはなぜなのか、訝しむかもしれません。

 

こうした感慨は、ソラリスのようなSF以外の文学形式では、得られないものだと思います。

まさに無二の読書体験。

読み終わった後も、ソラリスの情景をこの目でいつか見てみたいと思い続けてしまいます。

人間の認識をはるか遠くまで押し広げてくれるという点で、SFというよりも、人間の創作しうる作品のうちで最高のものの一つと感じます。