今日も花曇り

今日も花曇り

読んだ本や考えたこと、仕事について。

自民大勝の予測は、開票のだいぶ前から報じられていたので、覚悟はしていました。
でも当日の夜になって、自民党が単独で300どころか議席3分の2を獲得する見込みと知り、正直、言葉を失いました。

私は、高市氏を積極的には支持はしません。
本当は、総理になって間もない現状で、国のトップとして評価できるだけの業績がないので、支持するもなにもない、というのが正直なところです。

ただ、その短い期間だけでも、
台湾有事についての不用意な発言をしながらその意図を何ら説明しないこと、
「責任ある積極財政」の責任とは何かを具体的に説明しないこと、
膨大な国の債務残高、長期金利の上昇と極端な円安を残したアベノミクスをきちんと検証せずに、それを承継する姿勢であること、

そして何より、「私か、私以外か」という人気投票を争点にし、雰囲気に流されやすい国民性につけこんだ戦略をとって大幅に議席を増やしたことに、決定的に不信感を抱きます(もちろん、その他にも統一教会との問題等もありますが)。

でも自分がどうして今回の選挙にこんなに失望しているのかを改めて考えると、高市氏云々ではなく、国民には、政治をチェックする能力などないのだ、ということを思い知らされたからでした。

例えば、私の年代から見れば、少子化や円安、物価高や格差拡大、今の若者が苦しむ閉塞感を生んだのはまさに国の失策であって、その中心はずっと自民党でした。
なのに、今回の選挙では若年層ほど自民党に投票した率が高いと報道されています。
  
混乱します。
なぜなのか?

私の感覚がおかしいのだろうか?

彼らが、本当に高市氏のやろうとしていくことを理解して、彼女に賭けてみようというなら、もちろんそれでいい。
でも私が恐れるのは、彼らは単に知らないだけではないか?ということです。
歴史も、高市氏がやろうとしていることの中身も。

そのうえで、初の女性総理で、いつも笑顔でなんとなく柔らかい「印象」で、威勢よくはっきりしゃべる高市氏に好印象を持ったというだけで投票してしまったのではないか。

そうでない人もたくさんいたことは、もちろんわかっています。
でも、これほど多くの人が支持するほどの中身を高市氏が語っていたとは、どうしても思えない。

選挙期間中、高市氏は政策をほとんど語りませんでした。
しかし選挙が明けてみれば、高市氏は当然のように「重要な政策転換は、すべて自民の政権公約に盛り込んだ。そして国民の皆様からの信任をいただいた」と述べました(2月9日の記者会見)。
そしてその中身には、日本国国章損壊罪の創設、非核三原則の見直し、そして憲法改正も含まれる。

これらをほとんど話題にしなかったのに、終わったとたん「信任いただいた」というのは、まさに恐れていたことです。
ちゃんと公約に書いてあったよね?
後から「知らなかった」とは言わせないよ、ということです。

議席が単独で衆院の3分の2あれば、やろうと思えばどんな法案でも通せます。
私は、憲法改正に絶対反対というわけではありません。
例えば、れっきとした軍隊である自衛隊を持ちながらそれを軍備でないというのは明らかに詭弁だし、新たに盛り込める国民の権利だってあるでしょう。  

でも、今回のような選挙を見る限り、憲法改正の判断を国民に任せるなど、私には恐ろしすぎます(憲法改正には国民投票が必要)。

インターネットは、民主主義の形をも変えました。
それは本来、ひとりひとりが声をあげる手段を与えることで、民主主義を強化することもできた技術だと思います。
でも実際に起きていることは、いかに人間が、根拠不明の雰囲気で物事を判断してしまう弱い存在かを、はっきりと可視化したことに感じます。

確かに今回、高市氏の戦略は全てがハマり、自民党の歴史的圧勝につながりました。
でも本来、選挙は戦略の巧拙を争うゲームではないし、もちろん、ショート動画の出来栄えやカウント数を競うものでもありません。

そんな要素が国の行方を決める選挙で大きな影響を持ってしまう現状に、憂慮や失望を通り越して、絶望しそうになります。
日本が長い下り坂を下り続けるのは、政治のせいではなく、まさに自分たちのせいなのだと感じます。

でも考えてみると、トランプ大統領もネタニヤフ首相も、ヒトラーでさえ、一応は民主的な手続で選ばれたのだとすると、民主主義というのは、本来的にこうした側面を持ってしまう制度なのかもしれません。

 

もうこれから4年間、野党には不信任決議案を出す議席すらなく、衆院解散はないでしょう。
高市氏が、私たちが「こんなはずではなかった」と思うような政治をしないことを願うしかできません。

 

英語の勉強で読んでいるサイトで、スイスの発明家が「Sarco」という自殺幇助ポッドの改良型を発表したというニュースがありました。

もとはNBCニュースのようです。

 

https://www.newsinlevels.com/products/a-new-machine-helps-people-die-level-1/

 

 

 

 

 

 

スイスでは一定の条件の下で自殺幇助が認められていますが、そのスイスでもこのマシンは議論を呼んでいるとのこと。

私自身は、生きる権利があるなら死ぬ権利も認めてほしいと思っているので、こうした機械は普及してほしい。
悪用のリスクは可能な限り排除したうえで。
慎重にならないといけないのは、間違いないと思います。どんな技術にも制度にも、そうした面はあります。

 

日本の現状では、自殺はそれ自体苦痛や肉体の破壊を伴う方法が多く、本人や周囲の人にとっては陰惨な出来事です。関係者への迷惑や、失敗した時の後遺症の恐れも大きい。
もう死にたいと思ったとき、相談窓口はたくさんありますが、基本的には思いとどまらせる方向での対応しかありません。死ぬ手助けの提案方法が、法的にも現実的手段としても、存在しないからです。
家族や知人に相談しても、本当の意味では相談に応じてくれません。
とても孤独だと感じます。

でも、自分の最期は、自分の選択によっていつでも穏やかに迎えられる保証があるなら、人生の不安はすごく軽減されると思います。


それは人生の最後のセーフティネットとして、前向きに生きる材料にもなります(自分の場合)。
どんなにつらくても最期は安らかだと思えるなら、生きるうえでは大きな慰めです。

尊厳や自己決定権が重要だ、という考え方にはたぶん異論はないのでしょうが、それをどこまで認めるべきか、それを実現する方法をどう準備すべきかの議論は、道半ばです。
自己決定が重要だと言われながら、この世界に生まれること、そこから去ることという一番深刻な問題については、その権利は実際には認められていません。

 

私自身は、生まれたからには、どんなに苦しくともとにかく自分を使い切るまで生きないといけない、という考えの同調圧力が息苦しく感じることがあります。

 
 

少し前に話題になった映画、『SHE SAID シー・セッド その名を暴け』(マリア・シュラーダー監督)を遅ればせながら観ました。

 

 

映画業界での性暴力を告発した内容ということは知っていたのですが、タイトルの『SHE SAID』が何を意味するのか、あまりわかっていませんでした。

観終わって、それがどんな重い意味を持っていたかが、よくわかりました。

 

性暴力自体がおぞましい行為ですが、この映画が告発するのは、被害者を金と脅しと法で口封じするシステムです。

女性記者2人の熱意と勇気が、口を閉ざす関係者から少しずつ証言を引き出していく様子に、観ているほうも勇気づけられました。

 

被害者であるはずの自分を長年責め続けた女性が、逡巡した末にジョディ(主人公の女性記者のひとり)に「自分の名前を出してよい」と電話をするシーンがあります。

それがどれほど勇気の要ることか理解しているジョディが「ありがとう、ありがとう」と泣きながら感謝を述べるのですが、大変胸をうたれます。

 

近時、新聞は意味もなく「オールドメディア」と貶められるのを見ますが、こうした取材はやはり社会の信用と伝統、何より組織としてのメディアだからこそできるので、絶対必要だと思いました。

映画でも、主人公の女性記者2人を守るため、映画界の超大物に対して毅然とふるまう編集長と副編集長の貢献が大きく描かれていました。

 

ハリウッドが自らこうした映画を本気で作って公開した事実には重みがあります。

こうした、長年見て見ぬふりされてきた歪みを「おかしい」と正せるなら、人間はまだ進歩できると感じました。

 

主役のひとりを演じたキャリー・マリガンはとても好きな女優さんで、私が観たことのある『わたしを離さないで』や『ドライヴ』でのおとなしい女性像とは違い行動力のある記者役でしたが、すごくよかったです。