依存症は色んな学問の宝庫 | ひきこもり、お遍路へゆくAmeba版

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自身のアルコール依存症や引きこもり、アダルトチルドレン問題により、生き方を見直す切っ掛けを手に入れ、その舞台に四国八十八ヶ所の遍路を選んだ男のブログ


アルコール依存症者の中には“隠れ飲酒”といった配偶者の目から隠れて飲む特徴を持った人が多い。

当然それは静かに、出来るだけ素早く、気付かれないように、そして短時間で多くの飲酒という任務を叶えないといけない。

果たしてアルコール依存症者たちにその知識があったかどうかは定かではないが、

一升瓶を両手で持ち、円形に振り回し、それを一気に口に持っていく。

そうして一瞬で大量のアルコールを体内に流し込むことに成功した彼らは何事もなかったように自分の定位置に帰るのであった。



一升瓶と言えばこんな話が多くの家庭で巻き起こる。

アルコール依存症が家族ぐるみの病気であることが良く解る話だ。

飲酒量(飲む量)をコントロールしようとする依存症者と、

飲酒量(飲ませる)をコントロールしようとする自称被害者家族のいたちごっこ。

ある時から家族は依存症者に対して「1日これだけ」と、何の知識も根拠もない自分のさじ加減の飲酒量を押し付けて、依存症者のことすらコントロール(支配)することを始める。

これを始めてしまったら家族も相当精神的な病気を発症していると思って良いだろう。

勘違いするなよ。

家族が精神的な病気を発症しているということだ。

当然依存症者にまでなってしまった人は“たったそれだけの量”で足りるはずもなく、何とか出来るだけ多くを飲む方法をコントロールしようとする。

そこで起きるのが↑に書いた隠れ飲酒と、そんな両親を見ている子供の心の傷(20年後の依存症者)であるから、自称被害者も充分な加害者なのだが、それは置いといて、

自称被害者は一升瓶に“1日これだけ”とマジックで線を引き出す。

依存症者はこっそりとそれ以上を飲んで線の所まで水を足す。

毎日それを繰り返すからドンドン薄まっていくアルコールに満足が出来なくなる。

自称被害者は気付いていない。

因みに昨日の相談者は隠れ飲酒に気付いていない様子だったので「そうだとしたら離脱症状が見られると思うのですが…」と伝えました。


いや、それ以前に、飲む量のコントロールが叶わないから依存症者は家の外でも何とかして飲む。

そんななか見つけ出された一つの手段が流体力学だったのだろう。

知識を味方につけるのである。😏



コンビニが出来る以前は営業時間の限られたアルコールの自動販売機まで、

自称被害者に気付かれない限られた短時間で(例えば妻が風呂中など)、

ウサイン・ボルトもビックリな奇跡の力を見せてダッシュする依存症者も多かったらしい。

本当に飲むためならどんな知恵も絞る。



元々が頭の良い人が多いと言われる依存症者ならではの、自称被害者たちとのいたちごっこ。

実に見苦しい。

一升瓶を追いかけているのは依存症者も自称被害者も同じであり、アルコールを飲まずして囚われている自称家族こそ“精神的”な病気である。



俺は入院中の子供返りしている患者に厳しくこう言うことがある。



「依存症者には優秀なひとが多いと言われる。

確かに高学歴や有名大学出身者、仕事をさせれば本当に優秀なひとが多い。

酒をやめなくてはならないことが理解できない頭が良い人たちの集まりだ。



依存症者には不良やヤクザが本当に多い。

酒を断つという根性すら見せられないヤクザやヤンキーだらけだ。



依存症者には良妻賢母(良い妻)が多いと言われる。

自分の頭で何も考えられない良妻賢母たちだ。」



この世界にいると優しさが何なのか解らなくなる時がある。

確実に死にゆく、離婚にゆく、仕事が首になる、周りを傷付け続けると解っている人達相手に、

優しくする

とは一体どんなことなのだろうか?



甘えんなよくそどもが。



命掛けて飲んできた酒くらい、命掛けてやめろよ。

本当に断ちたいなら目から血が出るくらい心理学や精神医学を勉強しろ。

本当に断ちたいならいくらでも泣かしてやるぞ。

それが俺のスタイル。

そもそも本当にやめたい奴がおらんが…。



飲むためならどんな知恵も絞るアルコール依存症。

金を手に入れる為のプロはギャンブル依存症。

栄養士よりカロリー計算がプロな摂食障害。

専門医を説教する精神薬のプロである処方薬依存症。

法律の裏の住人、薬物依存症。

配偶者の目を盗み嘘つきのプロ、不倫、セックス依存症。

既にその道のプロ、仕事依存症。

殴るのは任して、DV依存症。

防御力999、ひきこもり。

自分いじめのプロ、うつ病。

遍路の自称プロ、四国病。

旦那や子供のことは私が一番知っているプロ、共依存症。

その前に自分のことを知れよボケが。



ギャンブル依存症にしても金を作り出すプロなのに、そもそも勝ち目の無いギャンブルをするとか、

やっぱり依存症者は優秀じゃねぇな。

否認の病気と言われる依存症からの回復過程に奇跡的に足を踏み入れさせて貰ってつくづく感じるのは、

この病気からの回復に“現実を直視する力”を養うことはとても重要で、

例えそれが正論と嫌みを言われようが、断つものは断つ。

自称被害者も同じで、

「この人はきっと良くなってくれる(良くなって欲しい)」気持ちには共感できるが、

現実を直視すれば“ほぼ無理”であることに気付くから別の道を歩んだ方が良い場合が非常に多い。

そこで必ず「子供のため」とか依存症者のためという言い訳が出てくるが、

離婚して経済的に不安(働く不安)を感じて離婚できないという本音を隠す自分を直視する力をつけた方が宜しい。



追記

本を読んでいたらこんな文章にであった。

「正直によって私たちは飲まない生き方を得るが、寛容によって飲まない生き方を続けることができる」ドクター・ボフ

では、寛容とは何だろうか?

心が寛大で、よく人を受け入れること。

過失をとがめたてず、人を許すこと。

とある。

俺は酒をやめ続けるステージでこの“寛容”にぶつかっているのだろうか?

ハッキリ言って実際は「優しい」と言われることもあるし、現実世界では多くの人を許し受け入れている(つもりかもしれない)。

あくまでもこの場と現実は使い分けているつもりだ。

それにしても、

確実に死にゆく、離婚にゆく、仕事が首になる、周りを傷付け続けると解っている人達相手に、

寛容とは何だろうか?

「いいよ。いいよ。」と言うことなのか。

「このままじゃ死ぬよ」と言うことなのか。



もう一つ、ドクター・ボフよ。

「正直によって私たちは飲まない生き方を得るが、寛容によって飲まない生き方を続けることができる」


飲む生き方と周りを巻き込む不正直な生き方をしている人達と関わるなかで、


まだ飲まない生き方に入っていない人達に寛容は必要なのだろうか?




自分を卑下するわけではなく現実として、


断酒十数年って本当にまだピヨピヨだと自分も周りも見ていて感じるし、


俺の場合まだ42歳という中途半端な年齢だ。


自分の年齢もそうだけど、高齢者が多くを占める断酒の世界を31歳から歩んできた経験や、


今、42歳になって若い人達も増えてきた現在感じること(例えば同年代でベテランの俺と初心者の違い)


そして運が良ければこれからも続けていく断酒と加齢によって見えてくるであろう新たなステージ。


それぞれから見える景色、歩んできた道の違いから見える景色があるのは当然で、


俺はまだ理解していないのかどうなのか、


ちと、死にゆく奴らに砂糖みたいなことは言えんわ。




また“優しさ”とは、口から出る発音だけを言うのだろうか?


そういう奴らが集まれる場を無償で(手出し)作る人間など、恐らく100万人に1人もいないと思うが、行動はどうなのだろう。


自己主張は置いといて現実を例として出すならば、


俺は今日も精神病院からお願いされているミーティングを開きに、勿論無償で夜行かなくてはならないし、患者の送迎(片道30分、勿論交通費も自己負担)も長く続けてきた。


昨日は地元でもない保健所まで一時間掛けて足を運び、自称被害者のお悩み相談を無償で2時間受けてきた。


そもそも“自分の問題を棚上げして「相手が悪い」と自称する人達”たちや、“アル中”たちの話を数時間も聞けること、そもそもそんな人達と関わることが寛容以外の何なのだろう?


宮崎に2つの悩める人が集まる場を関西に何度も自費で足を運び作り上げたし、その一つは自宅から一時間半の場所にある。


それとは別に、それ以前から存在した依存症の組織の支部長、副理事長を引き受けている。


援助職や専門学校、大学、セミナーで講話を引き受けることもあるし(たまに有償)、


一応、この行動全てに祈りと愛を持って行動しているつもりだ。


俺は物凄く弱い人間だから必ず自分なりに理解している神である薬師如来に問い掛け、苦しい時も気が向かないときも自分のそれは置いといて、出来ることは行うようにしている。


優しさや寛容って一体なんなのだ?


少なくとも俺は師匠から優しくもされたし、怒られもした。


まだ俺には解らんわ。