本音は欠点を手放したくない(恐い) | ひきこもり、お遍路へゆくAmeba版

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自身のアルコール依存症や引きこもり、アダルトチルドレン問題により、生き方を見直す切っ掛けを手に入れ、その舞台に四国八十八ヶ所の遍路を選んだ男のブログ

“私たちは、自分で感情を害してしまうほどの問題だと思うすべての事柄を、神に取り除いてもらう準備が出来ているだろうか?


その一つ一つを全部取り除いてもらって本当にいいのか?


もししがみついていて手放せないものが残っていたら、手放す意欲が生まれることを神に願う。”


(アルコホーリスク・アノニマスより)




自分の欠点を紙に書き出し、


それをもうひとりの人と分かち合い、


そして、


ステップ6:こうした性格上の欠点全部を、神に取り除いてもらう準備がすべて整った。




取り除いて貰うのではなく、その前段階である、


“取り除いてもらう準備”とは何だろう。


自分の欠点全部を取り除いて貰えるなら、笑顔で、即答で、


「はい、宜しく御願いします」


とでも答えそうなものなのに、


実際はほぼ全ての人間が共通して、


今、何に悩んでいようが、


どんな苦しい状況にいようが、


自らそれを望んでいる場合というのをよく見かけている。


例えば、ギャンブル依存症の旦那に悩んでいると自称する妻も、よくよく本音を聞くと、


「困ってはいるが、自分ひとりで働いて生活する自信が無いから、離婚するより今の方がメリットがある」のである。


それを、


“子供の為”と言い訳する姿をみるが、


本音は自分で働きたくない、または、働く自信が無いし、


そのリスクを背負うくらいなら旦那と一緒にいた方がいいわけである。




同じようにステップ6に戻ると、


“その一つ一つを全部取り除いてもらって本当にいいのか?”


なぜそんな質問をする?




“もししがみついていて手放せないものが残っていたら、手放す意欲が生まれることを神に願う。”


こんなに苦しんでいる自分が“しがみついて手放せない”だと!!?




俺の話をしよう。




俺は人間が苦手だ。


それを“嫌い”という感情にすり替えている。


本心を言えば、


人が恋しく、ひとりではとても寂しく、人が大好きだ。


ただ、


親からの虐待と否定の毎日。


そこから始まる人間に対する認知の歪みが、


後のイジメ、イジメられ、と更に負の連鎖を起こし、


PTSDという病気に罹ってしまった。


どんなに人と接したいと思っても、意思を強く持っても、


その意思よりも自分の今までの歴史が条件反射として、他人の前では身構えてしまう。


俺はその悩みから“孤立”を選んだ。


今でも俺が手放せないでいる問題である孤立依存症である。


“私たちは孤立し、人や権威を恐れるようになった”


この文の“恐れ”が俺の苦しみの根っこだろう。


取り除きたい問題である。


その恐れから俺は攻撃性という“攻撃は最大の防御”を選び、本心とは違う狂暴な自分を生きてきた。


ただ、いざこの“孤立”を手放そうとすると恐ろしくて堪らない。


酒もタバコもギャンブルも薬も、比較的簡単に手放すことは出来たが、


孤立という依存症を手放そうとすると身体全身からアレルギー反応のように抵抗が生まれる。


これがきっとPTSDという病気なのだろうが、




“その一つ一つを全部取り除いてもらって本当にいいのか?


もししがみついていて手放せないものが残っていたら、手放す意欲が生まれることを神に願う。”




俺は自分の困っているはずの苦しい部分ですら、


本音なのか、果たしてどれが本音なのか解らないほどに、


手放したくないのである。




人は変化を恐れる。


それが良い変化だとしても恐れて行動に移さない。


「旦那、旦那」と、


「DV、モラハラ」と、


嫌なら何故、離れない?




それが人間。


実は困っているポジション(被害者ポジション)にはメリットだって沢山存在して、


支配(コントロール)は上(強い存在)からだけではなく、下からも例えば“おねだり”として存在するものである。


結局、今の状況は自分にとって何らかのメリットがあり、


それにしがみついているのは自分自身。


それを手放して、新しい生き方へ。


それを目指すのが依存症からの回復であり、俺のいう断酒なのではないだろうか?




実例


DVに悩み、例えば保護団体に保護されシェルターに入ろうが、やっぱり旦那(彼氏)の元に戻る人は非常に多く、


これと似たように○○依存症の旦那に困っていながら、念願の離婚を叶えたところで、次の交際相手もやっぱり○○依存症者であることが多すぎる(DVも同じく)。


その理由はハッキリしていて“旦那の責任”ばかりにしており自信の問題から目を背け続けているために、結局“自分好み”が変わっておらず、


つまりこの“自分好み”が私の手を必要としてくれる困った人で無くてはならないため、自分から次なる依存症者を見つける(または育てる)。


そのループから抜けたいのならば、自分が自分の問題や欠点と向き合い、生き方や考え方、感じ方を変えていくしかない。


だから俺は他人の責任ばかりにしたがる日本人女性達に苦言をいうのである。