病気からの回復に必要なこと(精神疾患) | ひきこもり、お遍路へゆくAmeba版

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自身のアルコール依存症や引きこもり、アダルトチルドレン問題により、生き方を見直す切っ掛けを手に入れ、その舞台に四国八十八ヶ所の遍路を選んだ男のブログ

俺は31歳2ヶ月のときにアルコール依存症と診断されておりますが(20代初めには依存症になっていた)、


診断されたその日から42歳となった今でもアルコール、タバコ、精神薬、ギャンブル等々断つこと出来ています。


10年を過ぎた辺りからハッキリと自分が依存症者として生きるステージが変わったのを感じ、


それを言葉で表すとしたら“静寂と落ち着きの視点”とでも言うのか、


一般人が想像する「もう12年もやめたのだから!」という“卒業”とは違った、自分の未来のリスクを落ち着いて認めることが出来るようになりました。


つまり、このままでは俺の断酒を初めとした回復は非常に不安定で危険なものであると、


断酒歴を重ねれば重ねるほど感じさせられていると言うことです。


本当に解りにくい感覚かもしれません。


恐らく一般的な人の病気に対する認識と言うのは、


身体がそうなったものであり、


手術をしたら、または身体が勝手に完治したら「はい終わり」と言ったものだと思います。


しかし、俺の認知は違います。


各依存症という病気に完治はないのを置いといても、


例え癌だとしても本人の生き方、考え方という物体の無いものが具現化して病気を作ったと思っています。


骨折などの怪我に関しても、そこに自分がいる行動に至った自分の思考や癖があります。


たまに癌などを患い、死を実感したことによりその後の人生が大きく変わった(主に良い方向へ)という話を耳にしますが、


これが正に“無理していた自分の生き方や考え方”という霊的な部分を見直したから起きたことだと思っており、


この話とはややズレますが、食生活や生活環境を変えて回復したりする人もいらっしゃいます。


それでもまだ身体が勝手に癌になったと考える人も多く、残念ながらこういう人はその後生きる選択肢を残されることは少ないでしょう。


一旦治ったところで何も変わっていない身体、精神、生き方は再び癌を作り、次こそは亡くなってしまう。


その前に何度か神様のような存在が気付く切っ掛け(大抵不幸やピンチ)を与えてくれますが気付いたときには既に遅し、


鈍感や知識不足、特に日本人のように霊的なことに無関心(宗教だと嫌う)な人達に生き残る道は無いでしょう。


この世の摂理として変化出来ないものは滅亡するものです。




先日、日本人の宗教に関して考えました。


日本には“世間体”というクズな考えがあります。


これを俺なりに言葉を変えて表現すると、


“他人の目を恐れて閉鎖的な家庭を作る”となります。


この時、既に自分(家庭という風通しの悪い閉鎖的な箱)の考えに囚われるということが起きてますので当然、


他者の知識を「洗脳」とか「宗教」と呼び蓋をしようとします。


実に都合のいい思考(言葉)です。


いつもこうして都合良く利用されるのは“大切で優しい”存在ばかりなのです。


また世間体という気持ち悪いことに縛られた日本人ですので、大きな間違いを起こし子や孫に世代間連鎖させていることもあります。


それは“恥”の感覚です。


本来、恥は“何”にかんじるものであって、何かを誰かに見られることに感じるものではありません。


ところが日本人は幼い頃から親に「そんなことをしたら誰かに見られて恥ずかしい」と躾られ、


恥を“そんなこと”に感じるものではなく、誰かに見られることと認識します。


恥とはあくまでも自分の不足に対して感じるものであり、その不足を誰かに見られることに感じるものではありません。


この認識のズレを親から子に、そして自分が親になった今、我が子に植え付けている、


あろうことか孫にそんな言葉を吐いている、世代間連鎖は今現在も起きているのです。


先程も書きましたが、お前らの閉鎖的な箱(家の中)での常識など、一億人が生活する日本で通用せずズレている方が普通だろ?という簡単なことに気付けよ!という話で、


ここに気付けたら人の話も受け入れられるし、自分の恥だって当たり前だから人に新たな知識や世界観だって訊ねられるのに。




勿論、宗教を嫌うに至った理由もあり、新興宗教と呼ばれるもの達に俺自身も良い印象はありませんし、


『消えて無くなれ!糞どもが!』と思っています。


ただ、自分なりに何かを信じようとすることと、新興“宗教”を一緒にしてはなりません。


数ある◯◯教という宗教ではなく、自分なりに理解した存在を持つことはとても重要なことであり、


俺も特定の宗教は持ちませんが、遍路を継続しているし、薬師如来という仏さんを凄く信じております。


俺は遍路と自分の人生を重ねて旅をしており“生に対して考えること”を俺は宗教だと位置付けております。


それが真言宗と呼ばれるのかは知りませんが、俺は自分の生と薬師如来を凄く結び付けております。


恐らく恥の感覚と同じように宗教すらも日本人の誤った認識によってズレてしまっているのでしょう。


俺の中での宗教とは“悩みながらも自分と向き合いながら生きること”であり、そこに修行や読経や布教活動は含みません。


と、まるで宗教の話になってしまいましたが、今日伝えたかったのは、



断酒12年目に入ってもまだまだ依存症に対する勉強は欠かせず、その頻度はこれからますます増えていくことになるでしょう。


依存症からの回復とは知識をつけること。


その為に足を運ぶこと。


行動を起こさなくては回復は得られず、身体(精神)が勝手に罹り、勝手に治ってくれることはありませんし、


ましてや、ただ単にアルコールを飲む動作の病気ではありません。




俺は宮崎県に新たに持ち帰りたいもの(回復のプログラム)を見つけ、今こうして自分自身で勉強しながら向き合っているところです。


年内にこの勉強会を専門病院で開けることを目指し、これからも俺の愚かな経験を人の役に立てて貰い、


過去の失敗を成功へと変えてもらう下心があります。


依存症に限らず癌だってなんだって今病気に苦しむ人達よ、


一緒に人生を変えましょう。


俺達が生きるのはこれからです。




と、言いながら最近は片手間に自殺についてばかり調べております。


俺はやはり死にたい。


そして具体的に、自分がこの世に存在した痕跡を跡形もなく消すことが俺の夢なのだと感じております。


その為に見えてきた死に方も、飛び降りと決めてきたものから、爆死と変わっております。


爆死って松永久秀かよ!と笑いが出ますが、自分が存在した痕跡を消すにはそれしか思い付きません。


しかし、


先日、離婚後に離れて暮らす父の死に直面した娘の動画を見て『やはり死なせて貰えんか』と感じたことがありました。


考えてみれば当たり前ですよね。


被害者面した加害者でありながら子供を合法拉致するバカ女達ではなく、無理やり引き裂かれた子供の心を考えれば、


どんな親でも心の隅っこに引っ掛かっている良心というのか、そんなものがあって当然。


しかし、実は死んでいたことを知った時の心の傷は確実に自分を責め、俺と同じ病気に陥ることは目に見えています。


依存症からの回復でとても重要なのが、子供に世代間連鎖させないことであり、それが回復者の希望でもあります。


そうだよね。


俺も子供も会うつもりが無かったとしても、やっぱり死の知らせが与える影響は良くはないよね。


当然だけど、生きてて、出来たら活躍している噂の方が良いに決まっている。


と言うわけで、ますます死なせて貰えない事実に気付かされて、


いや、それでも俺は自分の夢である“この世から跡形もなく消える”は諦めません。


その時の為に悔いなく生きるという矛盾を生きております。


だから逝くときは迷わず逝かせて下さいよ。


結局、いつも行き着く答えは、


人間、焦らんでも必ず死ねんるや。




いや、我が手で出来るだけ素早く!




これが虐待の与えたもの。


自分を作り出した存在から存在を消そうと努力された認識。


幸せなお前らには解らんやろ。