「あれがあの有名な三光病院か」
11月末、遍路で3順目の終わりを間近に控えていた俺は香川県の85番札所八栗寺の山を下り、86番札所志度寺へ向かって歩いていた。
その目には向かいの丘にある依存症治療で名前を聞いたことがある三光病院が映っていた。
依存症専門病院と言っても、勿論スタッフの熱意やレベルの差はまちまちで、悲しいことに本人たちはそれを見落とし「自分達は依存症治療のプロだ」と言いきっている悲しい人達も多い。
依存症になるひとは幼い頃から親の顔色を伺い、その影響から対人関係に敏感な人も多く、
だからこそ基本3ヶ月という長い入院生活で敏感に医者や看護師の隠しきれていない本音に気付き、信用を失い、関係性の病気だけに不信感から病気の悪化に向かう。
全国各地のセミナーに行ける時は行く俺だけど、やはり情熱のある病院は遠方なのにスタッフが参加していることが多い。
患者は会場で見たその医療関係者の姿(情熱)に感動し、自分も回復しようと思えるものだ。
目が覚めてスマホを開くと1つの記事が目に入った。
沖縄県で行われたアディクションフォーラムで三光病院の医者が講話をしたようだ。
沖縄まで香川の医師が呼ばれるのだから、当然レベルは高いのだろう。
何より目を引いたのは、依存症と幼少期の親子関係が依存症の原因になりうるという講話の内用だった。
そして、苦痛を取り除くための間違った“自己治療”として依存症が出来上がる過程も話されたようだ。
これは俺が自分自身で経験したことをずっと話し、書いていることだが、未だに依存症から回復したベテランや医療関係者ですら理解されないことが多い。
「誰も押さえ付けて飲ませた訳ではない」
そう言うバカも非常に多く(師匠含む)、だから「依存症を心理学として理解していないのだ」と俺はいう。
だからこう言う正しい知識を医者という“説得力ある立場”の人が言ってくれることは嬉しいが、本当は偏見さえなければ体験者の言葉が一番説得力あるものだ。
残念ながら古い知識は新しい知識に勝てないことが多く、しかし人は古い考えにしがみつこうとしてしまうのだ。
依存症からの回復に必要なのは徹底的な自分自身の棚卸しであり“何故?”の徹底と繰り返しである。
「誰も押さえ付けて飲ませた訳ではない」と物理的な話をしている訳ではない。
“何故”そうなってしまったのか、人間の複雑な心理を紐解く必要があるのだ。
依存症の人を見てみよう。
俺の感覚では根っからの酒好きがアルコール依存症に至った人というのは100人中1,2人いれば良い感じだ。
殆んどが例外無く虐待や、自分の人生に親からの過度な干渉(つまり支配)を受けている。
先ほど根っからの酒好きと書いたが、俺は根っからの酒好きはアルコール依存症に至らないと思っている。
四国を歩いていて(色んな町を歩いて見てみるという意味)もそうだが、港町に差し掛かるとアルコールの瓶や缶の捨てられている数が爆発的に増え、人の顔も随分と険しくなる傾向がある。
宮崎県でも田舎に行くと強烈に飲酒習慣の残る地域が多く、残念ながら酒を飲めないと村八分は存在する。
そう言った世代間連鎖(その家庭や地域の普通)に気付いていない酒飲みが“根っからの酒好き”を自称するように感じる。
俺は酒を飲んでいるころから自分の飲酒と自分が受けた虐待の関係性に気付いていた。
そして断酒すると共に先ほどの記事にもあったアダルトチルドレンからの回復の場を宮崎にも作ることを目標にして、今年で立ち上げて5年目を迎えている。
しかし、現実はアルコール依存症の某自助グループのベテラン(顔役)からずっと嫌がらせを受けているのが事実だ。
「クソど田舎の低レベルに浸かっちゃいかんぞ」と亡き師匠に言われたことがあるが、正にその通りで、
断酒会とAAという二択しか用意されていなかったクソど田舎の自助グループ環境で回復を重ねた“老害”達には今の知識(他の選択肢)やレベルを理解することが出来ないようだ。
俺は都会に何度も足を運び、色んな自助グループを見てきた。
クソど田舎より知識に恵まれた都会では自分の持っている依存症(例えばアルコール)の自助グループと、アダルトチルドレンや感情や情緒の自助グループ(からの回復)を平行して通うことが多い。
そして、回復を重ねて行くうちに自分の本来の根っ子にたどり着き、いつかはアダルトチルドレンや感情や情緒などの自助グループ一本に絞る人も多い。
それがど田舎ともなると自分の依存症に向き合う一択しか残されず、時代が進化した今でも「アダルトチルドレンは断酒後2年経ってから向き合わないと危険だ!」とか古い考え方に固執しているのだ。
誰の経験ですか?
一度でもアダルトチルドレンを知ろうとしましたか?という話で、こういう人に限って偏見でものを見て絶対に知ろうとはしない。
確かに今の俺のようにたまたま見かけた自衛隊の動画(父が自衛官だった)が引き金となり解離しているのか、フラッシュバックしているのかは置いといて、それがメンタルに影響を与えることは理解できるが、だからと言って再飲酒するのは別の問題だと思う。
そもそも俺がアルコール依存症の自助に関わった敬意を話せば、断酒した時にアダルトチルドレンの自助グループが地元に無かった為、
「アルコール依存症の自助グループでもアダルトチルドレンの回復は出来る」と話した当時の会長に、「ではアダルトチルドレンを立ち上げるまで」と参加した経緯がある。
長年続く嫌がらせや、俺のグループへの非難、陰口に対して俺が言いたくもない口を開くとすれば、
「だからそんなに“自分は”断酒を重ねているつもりでも、根っ子であるアダルトチルドレンをバカにして疎かにしたから、あなたの子供は最近アルコール依存症のまま死んだのだ」である。
そしてアルコール依存症の子供を失っても更にアダルトチルドレンの概念に対して非難を続ける姿に、自分の子育ての失敗から目を背けたい姿がよく見える。
この“回復者”がもっと真剣にアダルトチルドレンに目を向けていたら、もしかすると自分のアルコール依存症で苦しめた我が子を救えたかもしれないのに、
俺は悔しくも、また最近その人から受けた嫌がらせに悩み向き合ううちに、アダルトチルドレンからの回復の場に隠されたもう1つの宝物に気づいた。
よくアダルトチルドレンを「親のせいにしている!」と勘違いする人がいて、だからこそ「誰も押さえ付けて飲ませた訳ではない」とアホな発想が生まれてくるが、先も書いた通り物理の話をしているわけではなく、ここは心理学とか精神科の世界である。
どんな病気に対しても原因をハッキリと見極める必要がある。
その後にその人が原因と責任を混同しないことを願うが、俺が産みの親であるアダルトチルドレンの場を、
恐れずに徹底して原因に向き合い、自分の責任を我が手に取り戻せる場になることを祈っている。
確かに原因は親だが、親が自分の代わりを生きることなど不可能であり、
そもそも自分のことすら面倒が見れなかった親だからあなたに自分のコンプレックスを託し、依存してあなたを磨り潰したのだ。
そんな親なら尚更あなたの代わりは生きれない。
そして、俺は責任とは選択肢の多さと思っている。
自分の生きる選択肢を増やすことは幸せなことで、その自由のなかから“自分で選んだ結果”が幸せになろうが、失敗に至ろうが、その責任を取ればいいだけで、
責任は行動の先にあり、行動=失敗でもない。
そして大抵の失敗こそ幸せに繋がることが多いのだ。
自分の思う理想など所詮、頭の悪い俺やあなたの知識の範囲の妄想であり、
幸せとは自分の知らない世界を知ることでもあると思わないか?
いつまで“井の中の蛙大海を知らず”を生きるのだ?
俺が今回本当に悩み苦しんだ嫌がらせの先に見つけた宝は、
自分のアダルトチルドレンに向き合うということは、自分の子育て(の影響)にも目が当たるという単純なことだった。
つまり、俺の作った場は自分を振り返り、我が子のことも考えられる素敵な場だってことに気付かされたんだ。
つまり未来への予防へも繋がる。
偉そうなことを書いている俺も11年会っていないとはいえ3人の子供の親。
正直、元妻に拉致されなんか子供に対する思いも冷めてしまっているが、必ず俺達夫婦が与えた影響は子供に残る。
注意したいのは、あくまでも“俺達夫婦”であり、世間ではどちらか片方の責任にすることが主流なようたが(女とはそういう生き物)、それでは不幸しか生まれないし、自己成長に繋がらない。
話を戻すが、子供に与えた影響は子供の持って生まれたカルマ、輪廻転生(似たカルマを持つ親を選んで生まれてくる)とも言い換えられるが、
そんな子供の何かヒントになればと思い、この場を宮崎に作った経緯もある。
そして今の俺を救っている輪廻転生やカルマの考えは、
俺の前世から持ち越したカルマを似たカルマである親に酒乱のアル中という悪役を背負ってもらい、俺をボコボコに虐待して貰えたとも言い換えられる。
俺は親を恨みすぎてここまで病気を悪化させたがそれは間違いであり、自分自身へのセルフ虐待だった。
だから原因と責任を混同して欲しくないと、世の中に訴え続けたいと思う。
原因は原因。
それを解決していくのは協力者は現れたとしても、自分以外存在しない。
そして問題を解決した先というのは大抵幸せなのだから、
既にあんたは幸せを手にしながら「幸せになりたい」と叫んでいるのだ。
一度、夜の灯台の麓に行ってみてはいかがだろうか?