長文 | ひきこもり、お遍路へゆくAmeba版

ひきこもり、お遍路へゆくAmeba版

自身のアルコール依存症や引きこもり、アダルトチルドレン問題により、生き方を見直す切っ掛けを手に入れ、その舞台に四国八十八ヶ所の遍路を選んだ男のブログ

先日のヘコんだ出来事からも回復してきて、その前にやっていたDIYの日記でも書こうと思います。

その前に、少しだけ御報告を。

と書いて、結局長くなったのでDIY日記は取り止め、今日の日記と、先日から書いていた日記を繋げてアップします。



実は8月頃に予定していた四国移住ですが、先日のゴタゴタにより俺は2,3年見送ることにしました。

しかし、住みたい場所が超具体的に決まっており大体の番地まで決めているので、これに関しては早くも、遅くも決まり次第となってしまいます。

決まれば即引っ越しになりますし、そこが無理だったら話は振り出しに戻るので四国移住自体が取り止めとなることもあります。

副業で遍路宿をするため立地はかなり重要で、現時点で今、目をつけているところ意外に四国で心当たりは無いです。

あくまでも“遍路(旅人)の中で生きていたい”という人生観が大切であり、遍路宿の収入は当てにしておりませんので、

今と変わらず共働きになるでしょうし、他の宿の邪魔になることや、強引な引っ越しは考えておりません。

因みに善根宿でもいいのですが、現実的にそこは少々の対価を得た方が御互いに良いと思いますし、善意の継続はかなり大変なものだと感じています。

と言うわけで昨日、都城で担っている色々の役職のひとつを辞する報告をしてきました。

自助グループの役職を下り、肩の荷がすっと下りた気がします。

勿論、後継者も見付からなそうなので、引っ越しまでは今の役割をしながら引き継ぎや整理をすることになりそうですが、

果たしていつ引っ越すのか、早いのか、しかし遅くても数年内に引っ越す確率は高いということで、取りあえず一旦(か永遠に)アルコール依存症の自助グループとは縁が切れます。

元々、嘘にまみれた診察でついたアルコール依存症の病名なので、アルコール依存症の自助グループをこんなに長く続ける気持ちは最初からありませんでした。

この病名は当時“可哀想なお母さん”という立場を手離したくなかった母を守るために必要となったものであり、兄弟達の振り絞った愚かな知恵の“永遠に精神病院に閉じ込める”作戦の口実としてアルコール依存症の病名を何がなんでも欲しかったわけです。

何度も書いていることですが、アルコール依存症の病名をつけて精神病院に閉じ込めるべきは酒乱で虐待を行い、アルコール依存症(精神科から逃げ続けたので未診断)のまま死んだ父であり、

“可哀想なお母さん”を守るのではなく、被害にあっていた俺をそのお母さんが身体を張って護るべきであり、“可哀想なお母さん”は二度も俺を助けられず失敗を重ねました。

一度目は虐待にあう俺、二度目は自分のせいで精神病院に閉じ込められる俺を助けなかったことです。

ところが、誤診とはいえ付いてしまった“烙印”にだって通す筋があると思い断酒を継続しておりますが、

アルコール依存症の自助グループはあくまでも親子関係の自助グループを宮崎に立ち上げるまでの繋ぎと、当時の理事長と話し合っての入会でした。

ここまで必死に頑張ってきましたが、特に師匠が亡くなって8年間?ずっと苦しかったです。

特にここ最近は、このブログで書くことも“依存症の世界に身を置いているストレス”から暗く厳しい内用を書くことが増えました。

本当はDIYや旅など楽しいことを書きたかったけど、本当に、本当に、依存症の援助職も言うとおり、この場には果てしない成長もありますが、病みます。

辞めるのは引っ越しが原因の最もですが、実は今年辞めようと決意した理由の1つとしては、去年半ばには出来上がっているはずの出版の遅れも関係しています。

本を書くということは心の内がとても大切であり、このブログ同様に心が疲れている今書ける内用は、虐待や逮捕、離婚、精神病院幽閉と依存症から立ち上がったという、人に元気や勇気を与えられる本では無いと思うのです。

出版の遅れも常に目を背けたいほど心に引っ掛かっており、これもまた非常に俺の心を病ませる理由となりました。

だから来年度中には仕上げて、楽になりたいと思います。

断酒して間も無く11年を過ぎ、去年から見えてきたのは“距離感”という文字でした。

すると俺は今、役職を背負うほどの組織や依存症患者との距離感に疲れてしまっていると気付き、自助グループとの距離感、つまりは自助グループの本来の姿である一個人が他者の世話ではなく自分のことに向き合える距離感に戻りたいと思いました。

会費未納や繋がらない連絡に心を痛めるのはもっと先のステージであり、もっと加齢してからの話です。

生前の師匠も「この活動は金も時間もかかるから、それに恵まれている人しか出来ない。だから働き盛りに継続は難しいし、老後の活動だ」と言っていたように、

50代60代70代80代に囲まれて33歳から支部の代表をやってきた俺にしか解らない苦しみだと思います。

最近でこそ同年代も増えましたが、ずっと管理する相手も50代60代70代80代の依存症者。

管理について話し合う管理職達も50代60代70代80代の中。

いつも自分を奮い立たせて気持ちに嘘をついて来ましたが本当に苦しかったです。

そもそも依存症の根っ子の多くは“親子関係(育ち)”であり、愛着障害だと思います。

愛着=距離感とも置き換えられ、距離感の基礎となる親子関係が狂っているので、生きる上での全ての距離感が狂ってしまいます。

だから良い人すぎて、疲れすぎて、飲みすぎてしまうのです。

そんな距離感を断酒11年もしておきながら今でも掴めず、近すぎた役職に心はボロボロ…。

俺の欠点でもあり、弱さでありますが、今は暴力が激しく監視と支配を続けた親に根付けられた“過剰適応”する悪い癖がまだまだ手の打ち所も無い程に解決策が見つけられておりません。

本当に、以下の虐待サバイバーの書き込みがこの苦しみを表してくれていますね。


先日、


我が子を性的虐待していた父親に懲役20年の判決が出ましたが、依存症の世界ではこんな話掃いて棄てるほど聞く話です。


このニュースのコメントを見ても同情するコメントばかりですが、俺はこのコメント達を『この人達は、この被害者が成人した姿を見ても差別ではなく同情出来るのだろうか?』と見ていました。


男の子は殴られ罵倒され、女の子はそれに加えて性的虐待も起こることがわりとありますが、どちらも本当に苦しむのは虐待を受けている時ではなく、成人した後から始まる地獄です。


これは俺の実体験でもありますが、虐待を受けている時はあくまでも“痛い”、“怖い”という気持ちがずば抜けて優位であり、そしてまだまだ親のことは嫌いじゃありません。


むしろ好きな位です。


自分の心の傷に気付いたり、その傷が悲鳴を挙げ始めるのは大体が成人してからの話です。


だから俺の感覚では虐待を受けている時期は“恐怖”であり、“苦しい”はそのずっと後に気付くことなのです。


非行や援助交際をする若い頃はまだまだスリルを楽しめるのですが、年齢と共に法律の持つ力や、自分の自由度が広がることに俺達は混乱してしまうのです。



いつになったら…、俺はこれを克服出来るのでしょう。

勿論、これからも克服を目指して生きます。



長くなりましたが、数日前に書いた日記も内容が似ていたので貼り付けます。

最近はこうして、思いを書いてはアップしない事が増えてます。



先日、80歳を超えた福岡県に住むアル中が宮崎まで出てきてこう言った。


「この活動は金と時間はかかるのに一円にもならない。そして嫌な思いをすることもある」


続けて、


「この活動で金が貰えるとしたら1つ、役職をしている最中に死ぬことだ。そしたら組織から一万円程度の香典は貰える」と言った。


まさにこれが俺のずっとの悩みだったので『俺意外にもこんな悩みを言う人がいるもんだ』と感じた。


アルコール依存症からの回復過程で、自分の失敗体験を人のために活かそうとすれば、とても嫌な思いをすることが続く。


“自分の為”と言えばそうなのだが、そんなのは綺麗事で俺は常にそう思えるほど強くはなれないし、


依存症者と関わると言うことは想像を超えるほど大変で落ち込むことの連続だ。


専門職ですら給料を戴いておりながら、その辛さを語るのに、俺たちは全くの無償、そして先に述べたように逆に金を出し、時間も労力を使う。




しかし、この80歳を超えるアル中をよく考えてみると、


何故、わざわざ宮崎で行われるセミナーまで来たのだろうと疑問が残る。


福岡から宮崎と言えば高速道路代とガソリン代を考えれば往復で二万円は飛ぶのにだ。


いくら乗り合わせて来たとは言え、割り勘にしたって大きな金額となるし、


俺は高齢を経験したこと無いが、身体も気力も大変だろう。


因みにこの人は九州各県のあちこちで見かける有名人だ(本州、四国も行ってるかも)。




その理由は簡単だ。


酒をやめたいのだろう。


人の和のなかでの活動に楽しみを見出だしているのかもしれないが、


恐らく断酒して20年、30年は超えているだろうこの人は、今でも酒をやめたいのだ。


それは俺も同じことで、俺のようなクソ人間でもお陰様で来月19日の“逮捕記念日(俺の人生が好転した日)”に断酒11年を迎える。


その俺もまた、今でも酒を“やめた”のではなく“やめている”最中なのだ。


煙草も、ギャンブルも処方薬(精神薬)も暴力も同じくやめている最中なのだ。


今でも飲めばあっという間に人が驚く程の量をケロッと飲み干すだろう。


缶ビールなら簡単に8リットルは飲み干す男なので飲むことは出来るが、飲まない選択肢を1日、1日と選んでいるのだ。


それが俺の2倍、3倍、4倍の期間、酒をやめていても、まだ酒をやめ続けたいのだ。


知識の乏しい人はこう言うだろう。


「そんなに長い期間やめたのだから少し位飲んでも良いのでは?」


そう言うことでもないし、1滴の酒が8リットルを毎日飲み続ける日々を呼び起こすらしいし(俺は経験してない)、これは俺達に取ってライフワークなのだ。


だから賛否はあるだろうが、俺は酒と短刀があるとすれば迷わず短刀を選び、この愚かで醜くい自分の首を切り落とすだろう。




また、年齢が80歳とも言えば後10年生きられる可能性も随分と低いだろう。


『もう、それだけ頑張ったのだから余生は飲んでも良いのではないか?』と言う人もいるだろう。


ただ、この老人はきっと1ヶ月後に自分が死ぬと分かっていても、それでもまだ酒をやめたいのだと思う。




金の話をした老人を見たときの俺の心の内はこうだった。


『そりゃ、あんたらは老後の無職とは言え、俺達には想像も出来ない程の年金を貰っているだろうから…』


確かに老人は貰う年金は自分が10万、同じく80歳の妻(現役で働いている)が10万らしく、俺の65歳以降よりかなり裕福である。


しかし、それは置いといても情熱と、行動は凄いことだ。


仮に俺が金に恵まれていたところで“めんどくさい”という気持ちが先頭に立って同じ行動は起こせないし、それでも金を惜しみ行動を起こさない理由探しに時間をかけるだろう。


そんな老人を見ながら俺は自分の腑抜けた姿を痛感させられた。


断酒を始めたことはあんなに必死だったのに…、師匠を亡くして以来、何か見失って纏まらない自分がいる…。


思えば16歳の時、父を亡くしてからも俺は脱け殻の様になり23歳で虐待のフラッシュバッグを起こし、


複雑性PTSD(からのアルコール・処方薬依存症)を発病するまで父の死を受け入れられずフワフワと生きていた。




やはり面倒の先にも必ずこうして気付かせて貰えるものがある、そう感じさせられた話でした。


人と人の出会いはとても素晴らしいことだ。





もう1つ気付かされたことで、その人もこんなことを言っていたが、また別の人の話をしよう。


その人もやはり80歳近い年齢になっており、今では身体も動かなくなっているようだ。


しかし、コロナ前まで月に一度宮崎県の北の端っこから、宮崎県の南の端しっこである俺の地元にまで来て、依存症の家族を持つ人達に向けてその人はメッセージを送り続けた。


今、その場に俺が関わっているので俺の先輩に当たる人になるが、


その人が酒を飲んでいた頃は、実に支配的で言葉使いも悪かったようだ。


妻に向かって「おい、早く飯を出せ」だの、何から何まで命令口調で、口も悪く、自分は一切動かないのに実に“アル中”らしい生活を送っていた。


しかし、断酒して生き方を見直す内に、今では家事を自分から進んでするようになり、言葉使いも「おい!」から「お母さん」と変わっていった。


そんな話を聞けば過去の自分が目に浮かぶ。


俺も似たように何もしないのに何から何まで文句をつける男であり、更に俺の場合は酒を飲まずとも凶暴であった。


子供達も俺に怯えて凄し、俺が飲み干したビールの缶をテーブルに置くと、その渇いた「カンっ」という音に子供3人が我先に冷蔵庫に走り、冷蔵庫によじ登りながら俺にビールを上納していた。


本当に狭いアパートだったのに、子供達は全力で冷蔵庫に走り、大きな冷蔵庫の冷蔵室に小さな身体でよじ登りビールを取るのだ。


そんな姿を見ても俺は何も感じない。


ただ、少しでも早く次のビールが飲みたいだけなのだ。


そんな今でも死んで償うべき俺も遂には離婚され、子供達も3人とも失うことになった。


今更だけど、俺は徹底的に反省した(子供に関しては。元妻には御互いで作り上げた関係、御互いの課題だと割り切る)。


そして、今では家事の殆んどを行い「飯!」と言われなくてもご飯を準備できるまで成長した。


この経験を通して何を感じているかと言えば、自分のことが自分で出来ることの幸せである。


家事が出来なかったり、面倒だったり、または自分が家事をするという世界観を親から学べなかったり、色んな考え方もあるだろうけど、


自分のことが自分で出来るようになることは自信にも繋がるし、本当に幸せを感じれることである。




俺はたくさんの罪を犯した。


そして法律上の罰は受けたから「貴様らから言われる筋合いはもうない」と言えばそれも正しいが、


余りにも愚かすぎた過去と向き合い続ける内にその根っ子が“知らなかっただけ”という無知の罪に気付いた。


知らない(知ろうとしない)ことが無知であり、罪であり、知らずにやったことに罪は無いと思う。


悪いと知らなかったわけだから。


とは言え、この中で自分で見つけ出した“戒め”という宝物はずっと大切に生きていきたいと思う。




ふと感じた。


自助グループ活動は人の為になる、その中で嫌な思いをすることも多く、それも自分の為と言われる。


それに縛られ過ぎているのか?


“自分のため”を考えると、もっと自分の好きなことに目を当ててもいいのではないか?と思った。


俺は今でも苦しみを求め自分を罰する癖がある。


ただ、世の中の為になることを嫌になりながらも続けることにも意味はあると思うし、


幼い頃、そうして貰えなかった自分を“自分のため”に大切にしてやるのも重要だ。


この2つに答えが出るとしたら、俺は今までどおり、まずはやってみて(辞めてみて)、そこで再び(必要とか)気付いたことがあれば、その時、停滞せず行動すれば良いのだろう。




四苦






八苦


愛するものと別れる


憎むものと出会う


求めても得られない


身心の苦痛




人生。




やはり俺は七転び八起き、


七難八苦が欲しいと思う。




持って生まれた罪の記憶なのだろうか?


あの世の約束の記憶なのだろうか?




ザ・精神科ワールド。