我が子を性的虐待していた父親に懲役20年の判決が出ましたが、依存症の世界ではこんな話掃いて棄てるほど聞く話です。
このニュースのコメントを見ても同情するコメントばかりですが、俺はこのコメント達を『この人達は、この被害者が成人した姿を見ても差別ではなく同情出来るのだろうか?』と見ていました。
男の子は殴られ罵倒され、女の子はそれに加えて性的虐待も起こることがわりとありますが、どちらも本当に苦しむのは虐待を受けている時ではなく、成人した後から始まる地獄です。
これは俺の実体験でもありますが、虐待を受けている時はあくまでも“痛い”、“怖い”という気持ちがずば抜けて優位であり、そしてまだまだ親のことは嫌いじゃありません。
むしろ好きな位です。
自分の心の傷に気付いたり、その傷が悲鳴を挙げ始めるのは大体が成人してからの話です。
だから俺の感覚では虐待を受けている時期は“恐怖”であり、“苦しい”はそのずっと後に気付くことなのです。
非行や援助交際をする若い頃はまだまだスリルを楽しめるのですが、年齢と共に法律の持つ力や、自分の自由度が広がることに俺達は混乱してしまうのです。
先日、80歳を超えた福岡県に住むアル中が宮崎まで出てきてこう言った。
「この活動は金と時間はかかるのに一円にもならない。そして嫌な思いをすることもある」
続けて、
「この活動で金が貰えるとしたら1つ、役職をしている最中に死ぬことだ。そしたら組織から一万円程度の香典は貰える」と言った。
まさにこれが俺のずっとの悩みだったので『俺意外にもこんな悩みを言う人がいるもんだ』と感じた。
アルコール依存症からの回復過程で、自分の失敗体験を人のために活かそうとすれば、とても嫌な思いをすることが続く。
“自分の為”と言えばそうなのだが、そんなのは綺麗事で俺は常にそう思えるほど強くはなれないし、
依存症者と関わると言うことは想像を超えるほど大変で落ち込むことの連続だ。
専門職ですら給料を戴いておりながら、その辛さを語るのに、俺たちは全くの無償、そして先に述べたように逆に金を出し、時間も労力を使う。
しかし、この80歳を超えるアル中をよく考えてみると、
何故、わざわざ宮崎で行われるセミナーまで来たのだろうと疑問が残る。
福岡から宮崎と言えば高速道路代とガソリン代を考えれば往復で二万円は飛ぶのにだ。
いくら乗り合わせて来たとは言え、割り勘にしたって大きな金額となるし、
俺は高齢を経験したこと無いが、身体も気力も大変だろう。
因みにこの人は九州各県のあちこちで見かける有名人だ(本州、四国も行ってるかも)。
その理由は簡単だ。
酒をやめたいのだろう。
人の和のなかでの活動に楽しみを見出だしているのかもしれないが、
恐らく断酒して20年、30年は超えているだろうこの人は、今でも酒をやめたいのだ。
それは俺も同じことで、俺のようなクソ人間でもお陰様で来月19日の“逮捕記念日(俺の人生が好転した日)”に断酒11年を迎える。
その俺もまた、今でも酒を“やめた”のではなく“やめている”最中なのだ。
煙草も、ギャンブルも処方薬(精神薬)も暴力も同じくやめている最中なのだ。
今でも飲めばあっという間に人が驚く程の量をケロッと飲み干すだろう。
缶ビールなら簡単に8リットルは飲み干す男なので飲むことは出来るが、飲まない選択肢を1日、1日と選んでいるのだ。
それが俺の2倍、3倍、4倍の期間、酒をやめていても、まだ酒をやめ続けたいのだ。
知識の乏しい人はこう言うだろう。
「そんなに長い期間やめたのだから少し位飲んでも良いのでは?」
そう言うことでもないし、1滴の酒が8リットルを毎日飲み続ける日々を呼び起こすらしいし(俺は経験してない)、これは俺達に取ってライフワークなのだ。
だから賛否はあるだろうが、俺は酒と短刀があるとすれば迷わず短刀を選び、この愚かで醜くい自分の首を切り落とすだろう。
また、年齢が80歳とも言えば後10年生きられる可能性も随分と低いだろう。
『もう、それだけ頑張ったのだから余生は飲んでも良いのではないか?』と言う人もいるだろう。
ただ、この老人はきっと1ヶ月後に自分が死ぬと分かっていても、それでもまだ酒をやめたいのだと思う。
金の話をした老人を見たときの俺の心の内はこうだった。
『そりゃ、あんたらは老後の無職とは言え、俺達には想像も出来ない程の年金を貰っているだろうから…』
確かに老人は貰う年金は自分が10万、同じく80歳の妻(現役で働いている)が10万らしく、俺の65歳以降よりかなり裕福である。
しかし、それは置いといても情熱と、行動は凄いことだ。
仮に俺が金に恵まれていたところで“めんどくさい”という気持ちが先頭に立って同じ行動は起こせないし、それでも金を惜しみ行動を起こさない理由探しに時間をかけるだろう。
そんな老人を見ながら俺は自分の腑抜けた姿を痛感させられた。
断酒を始めたことはあんなに必死だったのに…、師匠を亡くして以来、何か見失って纏まらない自分がいる…。
思えば16歳の時、父を亡くしてからも俺は脱け殻の様になり23歳で虐待のフラッシュバッグを起こし、
複雑性PTSD(からのアルコール・処方薬依存症)を発病するまで父の死を受け入れられずフワフワと生きていた。
やはり面倒の先にも必ずこうして気付かせて貰えるものがある、そう感じさせられた話でした。
人と人の出会いはとても素晴らしいことだ。
もう1つ気付かされたことで、その人もこんなことを言っていたが、また別の人の話をしよう。
その人もやはり80歳近い年齢になっており、今では身体も動かなくなっているようだ。
しかし、コロナ前まで月に一度宮崎県の北の端っこから、宮崎県の南の端しっこである俺の地元にまで来て、依存症の家族を持つ人達に向けてその人はメッセージを送り続けた。
今、その場に俺が関わっているので俺の先輩に当たる人になるが、
その人が酒を飲んでいた頃は、実に支配的で言葉使いも悪かったようだ。
妻に向かって「おい、早く飯を出せ」だの、何から何まで命令口調で、口も悪く、自分は一切動かないのに実に“アル中”らしい生活を送っていた。
しかし、断酒して生き方を見直す内に、今では家事を自分から進んでするようになり、言葉使いも「おい!」から「お母さん」と変わっていった。
そんな話を聞けば過去の自分が目に浮かぶ。
俺も似たように何もしないのに何から何まで文句をつける男であり、更に俺の場合は酒を飲まずとも凶暴であった。
子供達も俺に怯えて凄し、俺が飲み干したビールの缶をテーブルに置くと、その渇いた「カンっ」という音に子供3人が我先に冷蔵庫に走り、冷蔵庫によじ登りながら俺にビールを上納していた。
本当に狭いアパートだったのに、子供達は全力で冷蔵庫に走り、大きな冷蔵庫の冷蔵室に小さな身体でよじ登りビールを取るのだ。
そんな姿を見ても俺は何も感じない。
ただ、少しでも早く次のビールが飲みたいだけなのだ。
そんな今でも死んで償うべき俺も遂には離婚され、子供達も3人とも失うことになった。
今更だけど、俺は徹底的に反省した(子供に関しては。元妻には御互いで作り上げた関係、御互いの課題だと割り切る)。
そして、今では家事の殆んどを行い「飯!」と言われなくてもご飯を準備できるまで成長した。
この経験を通して何を感じているかと言えば、自分のことが自分で出来ることの幸せである。
家事が出来なかったり、面倒だったり、または自分が家事をするという世界観を親から学べなかったり、色んな考え方もあるだろうけど、
自分のことが自分で出来るようになることは自信にも繋がるし、本当に幸せを感じれることである。
俺はたくさんの罪を犯した。
そして法律上の罰は受けたから「貴様らから言われる筋合いはもうない」と言えばそれも正しいが、
余りにも愚かすぎた過去と向き合い続ける内にその根っ子が“知らなかっただけ”という無知の罪に気付いた。
知らない(知ろうとしない)ことが無知であり、罪であり、知らずにやったことに罪は無いと思う。
悪いと知らなかったわけだから。
とは言え、この中で自分で見つけ出した“戒め”という宝物はずっと大切に生きていきたいと思う。
ふと感じた。
自助グループ活動は人の為になる、その中で嫌な思いをすることも多く、それも自分の為と言われる。
それに縛られ過ぎているのか?
“自分のため”を考えると、もっと自分の好きなことに目を当ててもいいのではないか?と思った。
俺は今でも苦しみを求め自分を罰する癖がある。
ただ、世の中の為になることを嫌になりながらも続けることにも意味はあると思うし、
幼い頃、そうして貰えなかった自分を“自分のため”に大切にしてやるのも重要だ。
この2つに答えが出るとしたら、俺は今までどおり、まずはやってみて(辞めてみて)、そこで再び(必要とか)気付いたことがあれば、その時、停滞せず行動すれば良いのだろう。
四苦
生
病
老
死
八苦
愛するものと別れる
憎むものと出会う
求めても得られない
身心の苦痛
人生。
やはり俺は七転び八起き、
七難八苦が欲しいと思う。
持って生まれた罪の記憶なのだろうか?
あの世の約束の記憶なのだろうか?
ザ・精神科ワールド。