20万kmと空虚から現実感を取り戻す時代が来たぜ | ひきこもり、お遍路へゆくAmeba版

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自身のアルコール依存症や引きこもり、アダルトチルドレン問題により、生き方を見直す切っ掛けを手に入れ、その舞台に四国八十八ヶ所の遍路を選んだ男のブログ

遂にビーニャ号の走行距離が、


20万キロが見えてきた。

と言うわけで、




本日は2人とも休みだったので、サクッと250kmほど走って来ました。

次の目標は30万km。

古いものを修理しながら大切に使い続けることは幸せなこと。

物欲に支配された現代人の見落としているとても大切なことです。


20万キロ目指して何処に行ってきたかと言えば、


本土最南端の佐多岬へ行ってきました。

何も無いところで、地元に近いところなので俺は嫌いな場所ですが、人によっては憧れの場所なのでしょう。

俺も宗谷岬とか今でも憧れてますから。

ワザワザ展望台まで行きたくない俺と、行きたいビーニャ。


その途中で土砂崩れにより迂回路として設置されていた階段は、犬が苦手とする網あみの階段。

散歩でも側溝の蓋が網だと避けて通る程に苦手なのだけど、流石に下りの網あみ階段だとビクとも動かなくなるカイ。

歩きたくないのは俺も同じで「帰ろうよ」と言うのだけど、カイ(22kg)を抱っこして下りてくる怪力ババぁ。

余談だけど、老化が見えてきたカイは体重が25kgをキープできなくなりました。


右手には錦江湾を挟んで薩摩半島の先っぽにある開聞岳が見えます。


富士山そっくりな綺麗な山ですが、この山を見るたびに親父から聞かされた特攻隊の話を思い出し嫌になります。

戦闘機に乗った彼らはこの開聞岳(日本最後の景色)に別れを告げてアメリカ軍の戦艦へ突撃していきました。

特攻隊を美談にしたくないのは、そもそも戦争であることや、覚醒剤チョコやピロポンを飲まされて飛び立った話など、


都合のいいように切り取られ“御涙頂戴”な特攻隊にまつわる話や施設を見る度に俺はいつも反吐が出ます。

俺の住む宮崎県南部では小学校の修学旅行で知覧特攻平和会館に行きますが、

幼い頃から自衛官の父親に拷問を受け、戦争に行って戦死することを義務付けられた俺(昭和57年生まれ)にとっては、本当に知覧特攻平和会館は嫌な記憶しかないです。

ここに来て涙を流す人も多く見かけますが、それは平和に生きれたからであり、今でも俺のように戦争の後遺症に苦しむ人は多いのですよ。


うーん。

だから佐多岬も嫌いなんだなぁ。

そもそも何も無いし。

来る道中も何もないし。

因みに種子島や屋久島、その周りの島もある程度は目視出来ますよ。



今日は佐多岬に向かう退屈な車内で自分の生き辛さについて考えておりました。

最近、高知に移住して古民家をリノベーションするYouTubeを見ていて自分の生き辛さの本質に気付いた気がしたのです。

結論から書くと“何もかも他人任せの昭和世代に育てられた後遺症”とでも言おうか、

最近のYouTubeを見ていても自分で出来ることは自分で行うDIYや、古民家リノベーション、キャンプや車中泊など、人に任せると言うより自分のこと(出来る範囲)は自分ですることを人が求めるようになった気がする。

勿論、不景気の影響もあるだろうが、それよりもそこに“生きている実感”を見つけだしているようにも思える。

その視点で自分達の親世代を見てみると、全てが他人任せな時代だったと思う。

“保険”とか“保証”という言葉が大好きで、何でもかんでも他人(窓口スマイル)にお願いする代わりに対価を払う、そんな時代。

それは経済成長期の裕福で恵まれたエスカレーター時代を生きた後遺症でもあるが、

この世代をよくよく見ていると安心に対してお金を払うことが大好きと言うよりかは、

誰かに責任を取って欲しい意味で安心に対してお金を払って生きているように思える。

だから我が子にすら自分の人生の責任(やり直し)を求めた人を多く見かけるのだ。

この人達の親世代(つまり俺の祖父母)は貧困と知識不足により苦労した世代だから(苦労=美ではない)、

その後、運良く訪れた経済成長期の時代に我が子に学歴と安定だけを求め、心の教育を疎かにした(と言うか心の教育が出来る人間ではなかった)。

そんな時代に育った“時代に恵まれただけの学歴信者”として育った親世代だから、やはり俺にも勉強と習い事だけを大量に要求し、大切な教育や心の教育は疎かにして、

矛盾する様に教えてはいけない虐待や悲劇の数々など、そんな愚かばかりを自ら実演して子供に“学ばせ”生きてきた。

そんなこの世代の一番の罪は、

何もかもが責任転嫁の無関心(安心)。

言い換えると、自分自身に対しての無関心、

人間の姿をした中身の無いロボット達であった。

その果てで行われたのが“我が子に自分の夢を叶えて貰う”依存だったのではないか?と感じる。

中身の無い自分のコンプレックスを我が子に投影したのだろう。

父からはいくつもの「お父さんは◯◯がしたかったから」を俺は背負わされた。



昨今、その生き辛さに苦しんだ人達が少しずつ自分の生に疑問を感じだし、

昔のように他人任せではなく自分の頭で考え、自分の身体を動かし、そんな“DIY”な時代が必然的に戻って来たのでは無いかと思う。

安心を買うという名の自動思考停止ではなく、

責任を自ら買いに行くという、人生の舵を我が手に取り戻す選択だ。

俺は精神病院のなかで“他人事(無責任)”に生きていた自分に気付き、

何故こんなにも生き辛いのか、現実感を喪失し、空虚を生きていたのか解った気がした。

親から刷り込まれた“他人任せ(依存とも言える)”な生き方が、自分の人生から色を抜き取り、白黒の世界にしていたのだと思う。

今は自分の頭で考えることも出来るようになったし、

自分の身体を使って自分の生活を達成感(現実感)で白黒に色付けしている。



親たちの生きた時代は日本が一時的にバグっていた時代(経済成長期やバブル)。

そして今ではこの世代を“逃げ切り世代”と呼び、俺達では想像も出来ないほど手厚い保証を受けたまま文句(負債)だけを残し死んで行く。

このバグっていた世代の行う教育がそもそも“通常運転時代”に適しているはずもなく、

マイホームも終身雇用も専業主婦も、そもそもそんなことが可能だったのは昭和の一部の時代だけなのだ。

専業主婦にしたって、昔は家電の無いなか家事、子育てと両立して畑に出て働いていた訳だから、そもそも専業主婦があった時代など昭和のほんの一時の夢幻でしかない。

それが普通と思い込むほど馬鹿になった時代に刷り込まれているのだ。

やっぱりあの一時だけ日本がバグっていたんだよ。



夢から覚めよ。