クラシック 珠玉の名盤たち

  ブルックナー:交響曲第7番 ホ長調

Ne-dutch

夢の中で友人が囁く、「ブルックナーさん、このメロディーで幸運をつかんでください」、慌てて飛び起き書き留めたのが、有名な第1楽章第1主題である。ライプツィヒで行われたこの曲の初演は反発があったが、その2か月後の1885年3月にミュンヘンでの演奏は大成功となり、ブルックナーは本当に幸運をつかむことになった。ただ、この成功に至るまで、すんなりといった訳ではない。1883年に完成した後、周囲の意見を聞きながら改訂を加え、さらにそれに弟子のフランツ・シャルクが改訂を加えた改訂版が初版となった。
原典版であるハース版とノヴァーク版の大きな違いは、第2楽章のクライマックスの、シンバル、ティンパニー、トライアングルによる強奏の有無である。これは後から付け加えたもので、ハースはブルックナーの意思ではないと考えた。解釈が分かれた理由は、この追加部分が紙で貼られ、さらに「gilt nicht(無効)」と書かれていたからである。長らく、この文字がブルックナーの自筆であるかどうかが論争の中心であったが、近年の研究で自筆であることが判明した。しかし、これで決着したわけではない。指揮者のニキシュとフランツ・シャルクは、手紙で、ブルックナーが追加に同意したことを喜び合っているし、そもそも追加箇所を削除したいのなら紙をはがせば良いだけである。また、第8番のアダージョ楽章のクライマックスでも、シンバル、ティンパニー、トライアングルの強奏があるので、第7番での追加を受け入れたと考えるのが自然である。ハース信奉者のヴァントは、ノヴァーク版を「せっかくの良い気分を台なしにされる」と批判し、さらにハース版の正当性を示す根拠として、興味深い点を挙げている。それは、追加されたティンパニーの最後の音が「ソ」になっていると指摘し、他の楽器が「ド」で終わっているのにおかしいというのである。実際にはシンバルにかき消されてほとんど聴こえないのだが(ノヴァークはこの部分を「シンバルによる救済」と呼んでいる)。恐らくティンパニーの最後の音は間違いであろう。だからと言って追加部分すべてを「無効」とするのはいかがなものか。ここからは僕の想像だが、「無効」としたのは、ティンパニーの最後の音についてだけではないか。実際に自筆譜の画像を確認すると、「gilt nicht」の文字が記入された箇所は、ティンパニーの最後の部分の上の辺りである(たまたま空いていたスペースに書いたとも言えなくもないが)。「無効」と書くことで、「ド」に直したつもりだったのか、後で直そうとして忘れたのか、あるいはさらに紙を貼って直したものが紛失したのか、理由はいくらでも考えられる。いずれにせよ、追加がブルックナーの意思でないと断言するのなら、手紙の件、第8番で同様の箇所がある点についての明解な説明が必要であろう。
さて、この第2楽章は、敬愛するワーグナーの死を予感しながら書いたと言われる。師の訃報を聴いた後、葬送の辞となるコーダを付け加え、ワーグナーが考案したワーグナー・チューバを初めて採り入れた。ワーグナー・チューバとは、当時は、チューバにホルンのマウスピースを付けたもので、元のチューバより高音域を出すことが可能。ブルックナーは、続く第8番、第9番でも採用している。

● 版の種類
①ハース版(原典版) 
②ノヴァーク版(原典版) 
③改訂版

1885年のレヴィ指揮によるミュンヘン初演(改訂版)は大成功で、これが初版となる。前述のとおり、ハース版(原典版)は、第2楽章にシンバル、ティンパニー、トライアングルなし。改訂版は、ノヴァーク版(原典版)とほぼ同じだが、第1楽章冒頭にホルンのアウフタクトあり。

● 聴き比べ
第1位:ロブロ・フォン・マタチッチ/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団〈改訂版〉1967年
この演奏を上回る第7番は現れないであろう。壮麗で、雄大で、厳粛なこの曲の魅力を余すことなく訴えかける。冒頭の弦のさざ波からただ寄らぬ気配が感じられ、第1主題の語り口は雄弁そのもの、さらにスラブ的な趣きのある第3主題はマタチッチの得意とするところ。分厚いサウンドで押し進み、壮大なコーダの盛り上がりに息を飲む。静謐なアダージョ楽章では、あの巨体から、よくこれほどまで繊細な音を出せるのかと感心させられ、クライマックスの一撃は、ハース版信奉者を黙らせるのに十分だ。スケルツォの重厚感とフィナーレの高揚感もすばらしい。

第2位:カール・ベーム/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団〈ノヴァーク版〉1976年
この演奏は、僕が一番最初に聴いた第7番。第8番とセットになったLP3枚組で、有名なブルックナーの肖像画が描かれた立派なケースに入っていた。高校生には分不相応なこのレコードを何度聴いただろうか。同曲異演盤を聴き比べする習慣のなかったこの頃、真っ白なキャンバスに描かれた絵のように、この演奏は脳の隅々にまで染みわたり、以降、他の第7番の演奏を聴くときのベンチマークとなった。買い直したCDを久しぶりに聴いた。こんなすばらしい演奏に最初に出会えたのは何という幸運だろうか。いや待てよ。最初にハース版を聴いていたら、初めてノヴァーク版を聴いた時にどう思っただろうか。あまりの衝撃に興奮したか、うるさいと思ったか。意外と冷静に聴き流したか。人生で一度しか味わえない貴重な体験を逃してしまったことが残念にも思われる。

第3位:カール・シューリヒト/ハーグ・フィルハーモニー管弦楽団〈改訂版〉1964年
「シューリヒトの音楽に感動する人は、自分の耳を信用して良い」 これは宇野功芳氏の名言である。シューリヒトをこよなく愛する僕の耳は合格ということになる。特別なことは何もしていない。なのにどうしてこれほど感動を与えてくれるのだろうか。この演奏も格別で、時折、無性に「シューリヒトのブル7」を聴きたくなる。第1楽章提示部後半、第2楽章のクライマックスに至るところの、爽快な加速感、カッコ良すぎるではないか。クライマックスの強奏は、ハース版信奉者でも、これをうるさいと言う人は皆無であろう。そしてスケルツォがすばらしい。はるか遠くから鳴るトランペットから次第に迫りくる様にぞくぞくする。しばしば、オケの非力さと録音状態の悪さを忘れさせてしまう名演。

第4位:ブルーノ・ワルター/コロムビア交響楽団〈ハース版〉1962年
ワルターは、最晩年になってからブルックナーの本当のすばらしさがわかったと語っている。この演奏は亡くなる前年の最後のブルックナー録音となるので、ブルックナーを理解し尽くした到達点と言えるのであろう。ワルターらしいロマンティシズムを、重厚なサウンドで体現したすばらしい演奏である。生命感あふれるみずみずしい演奏で、ピチカートの一つ一つもずしんと沁みわたる。第2楽章も甘美さとは無縁で、後半2楽章へと自然につながっていく。録音状態も良く、ホールのせいなのだろうか、生で聴くような臨場感を味わえる。

第5位:朝比奈隆/大阪フィルハーモニー交響楽団〈ハース版〉1975年
ブルックナーが眠る聖フローリアン教会で演奏した、有名な「朝比奈の聖フローリアン盤」。第2楽章と第3楽章の間で、偶然鳴った教会の鐘の音が入っている(宇野功芳氏は、これを「神の祝福」と呼んでいる)。朝比奈が静かに鐘の音に耳を傾けた後、スケルツォに入るために、すーっと指揮棒を上げる情景が目に浮かぶようだ。午後4時過ぎに開演したので、第2楽章終了時にたまたま5時を知らせる鐘が鳴っただけと言う人もいるかも知れないが、宇野功芳氏は名言を残している。「これを偶然のできごとと笑う者に、芸術の心は決して理解できないであろう。」

第6位:若杉弘/NHK交響楽団〈ノヴァーク版〉1996年
ブルックナー・ツィクルスの始まりにふさわしい、濃厚で伸びのある開始から惹き込まれる。第2主題では思わず胸がキュンとなり、高らかに歌い上げる第3主題と、提示部だけで十分に愉しませてくれる。そして確信に満ちたコーダ部は、ようやく成功の階段を駆け上がったブルックナーの喜びを体現するかのようだ。アダージョ楽章の圧巻のクライマックスはノヴァーク版のすばらしさを余す所なく伝えてくれる。躍動感あふれるスケルツォとフィナーレも見事な演奏だ。ブルックナーのフィナーレ楽章としては、やや小ぶりな第4楽章を、色彩豊かに魅力的な作品に仕上げている。

第7位:朝比奈隆/大阪フィルハーモニー交響楽団〈ハース版〉2001年
伝説と化した聖フローリアンの奇跡から26年、朝比奈も大フィルも円熟さに磨きがかかり、後世に語り継ぐべく偉大な演奏を遺してくれた。最晩年の朝比奈は、侘び寂びを感じさせる枯れた印象の世界観を呈示するが、この演奏も例外ではなく、それでいて、要所要所はしっかりと重厚感も兼ね備え、感動を与えてくれる。第1楽章終盤はまるで曲の終わりのようなスケール感で、第2楽章は荘厳の極み、一転、生命力を吹き返したような躍動的な第3楽章、そして第4楽章は力強く締め括り、これまで追究してきたブルックナー解釈の総決算とも言える名演である。

第8位:朝比奈隆/大阪フィルハーモニー交響楽団〈ハース版〉1992年
朝比奈は、第7番の録音を13種類も遺している。この盤は、ちょうど真ん中、7番目の録音だ。テンポはやや速めで、聖フローリアン盤と比べると、鐘の音や長い拍手が入っているため全曲の比較は難しいが、第1楽章だけで2分くらい長くなっている。前者は残響の長い教会での演奏のメリットを活かしたとは言え、約1割も速くなっているのは注目に値する。この録音はポニーキャニオン盤の全集の一番最初となるが、ちょうどこの頃、朝比奈は「いつまでも遅いテンポを採るだけでは能がない」と宇野功芳氏に語っていたそうで、自分の演奏スタイルを確立しようと試行錯誤していた時期かも知れない。とは言え、スケルツォとフィナーレは、低弦も金管も重厚感たっぷりで、朝比奈節全開だ。ブル7は前半と後半で曲の出来の格差が大きいが、それだけに後半2楽章をどのように演奏するかで、曲全体の演奏の良し悪しが決まる。その意味でもこの演奏は名演中の名演と言える。

第9位:セルジュ・チェリビダッケ/ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団〈ノヴァーク版〉1990年
ブルックナーの回顧録を音楽で表現したような演奏である。極端に遅いテンポの第1主題は、遅咲きの作曲家が成功の階段をゆっくりと登っていくようだ。やはり遅めの第2主題で人生を振り返る。あぁ確かにこんなこともあったよな、という風に。そして早くも第3主題への経過部で、自信と確信に満ちた栄光のファンファーレに至る。第1楽章終盤、何度も発せられるチェリビダッケのかけ声が絶妙なアクセントとなっている。第2楽章も、当時のブルックナーの悲嘆にくれた心境が厳粛に伝わってくる。第3主題の主部は躍動感にやや欠けるが、トリオの美しさは格別。やはり遅めの第4楽章で、これまでの歩みを踏みしめるかのような感慨を持って曲を閉じるのだが、ここでも終盤に現れるチェリビダッケのかけ声がカッコいい。イエッ!

第10位:カルロ・マリア・ジュリーニ/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団〈ノヴァーク版〉1986年
ただひたすら美しい演奏。透明感のある澄んだ弦楽器、暖かく柔らかい木管、上品で洗練された響きの金管、ジュリーニの惹き出すウィーンフィルの音色は最高だ。第2楽章の極上の美の世界は、いつまでも浸っていたいと思うほど。全体的にテンポは遅くない。第1楽章の終わりの煽り運転など、ジュリーニらしくないところが見られるのが少し残念。
to be continued