具合が悪いのは判っていたが、最後はあまりにもあっけなかった。
本場所の協会挨拶でも姿を見せず、元・横綱北勝海の八角親方が代読していたし…長いこと公の場に出て来なくなっていた。
11月20日(金)、私と同年同月生まれの日本相撲協会理事長、北の湖親方が亡くなった。
たまたま翌日は11年振りに高校のクラス会があり、案の定この話題がひとしきり囁かれた。
出欠をとる段階で一人物故者が確認されていてのクラス会だったので、我々にとっては俄かに「死」がグッと足元まで迫ってきたように感じられた。
途中空白期間はあるものの、幼い頃から相撲ファンだった私は、「花のニッパチ5人衆」の出世頭、北の湖から目が離せなかった。
特に、大関時代とその直前の大関昇進を決めた場所の合計4場所の相撲は今でも忘れられない。
あの北の湖ほど強い力士は後にも先にも見たことが無い。
私の知る限り最強の相撲だと、今でもそう思う。
正直、関脇として最後に14勝1敗で初優勝と大関昇進を決めた場所のパワー溢れる相撲を見ていたら、「ひょっとしたら、これは連続優勝して大関2場所で横綱に駆け上がるかも」と半ば確信に近い期待が膨らんできた。
しかしながら、新大関の場所はどこかぎこちなさが出て10勝5敗に終わった。
あと2場所は期待どおり力みなぎる別次元の勢いを見せ、13勝2敗の星を続けて(優勝と優勝同点(決定戦で●))残し、横綱に推挙された。
横綱昇進後は、初の取組からその取り口が、あえて立ち合いの威力を落としたものに変わった。
立合い一気に勝負をつけようというパワフルスタイルから、精度を上げて「取りこぼし」を避けようとしたのか?
当時は大関時代に魅せてくれた怒涛の爆裂相撲を極めるのかと思っていたから、これは一時的な調整であり、いずれまた圧倒的な威力を見せ付けてくれると信じていた。
でも、それを再び見ることはなかった。
今回の訃報の中で、生前の「横綱になってからは、勝ってうれしいということはなかった。ホッとするだけだった」という述懐が紹介されて、腑に落ちたものだ。
その後、私は社会人になって最初の夏休みに北海道に行くことになり、迷わず北の湖の生家を訪ねようと決心した。
すると、なんという事か、出発の前日に有珠山が爆発し、洞爺湖一帯は立入禁止になってしまったのだ。
1977年8月の噴火だ。
北の湖の生家は有珠郡壮瞥町にあり、当然近づくことすら出来ず、私は札幌辺りで火山灰を被るのみだった。
そして、結局そのリベンジは遂に果たせぬまま。。。
今、書棚を探してみたら、やはりベースボールマガジン社昭和60年3月1日発行の「横綱北の湖・引退記念速報号」という特別号があった。
その年の初場所、北の湖は念願だった今の国技館のこけら落とし場所の土俵を二日踏み、力尽きた。
1勝も出来なかった。
今改めて手にとると、DTPなんて言葉すらない時代で、フォント、レイアウト・デザイン、広告も全て古色蒼然としている。
…あれから30年か―。
― 北の湖 ―
先に旅立つ偉大なる友よ。
あなたは我らニッパチ組のトップランナーだった。
お互い山あり谷ありの62年だったが、あなたは永遠の足跡を残した。
私はあなたの強く美しい一番一番を胸に大事に留めながら、これからの日本人力士の活躍を祈りたい。
月刊「相撲」の通常号はかなり整理してしまったが、この北の湖と初代「若乃花」の特集号は私の永久保存版だ。
昭和の大横綱、安らかに…。


