ミゼリコルディア本部跡と坂上天満宮と長崎の夜明け前 | 小さな幸せと長崎♡

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長崎市の神社へ全部行こうとするブログです♪
【到達率 永遠の99.9%】
※ブログにしていない物も含む。

ひとまず終わりを迎えました。が神社情報があれば教えてください❣
また個人の趣味ゆえ誤記などあると思います。ご容赦ください。

ランニングもしています♪


↑突然ですが坂上天満宮ですニコニコ
長崎市賑町(にぎわいまち)です。

街中にある、写真に見える範囲の狭い神社です!
牛牛
↑境内にお稲荷さんニコニコ
↑天満宮に向かって左の方には立派な石垣!と言うか城壁!


江戸時代以前はポルトガル人達が長崎を、各植民地(マカオ、マラッカ、ゴア、モザンビーク、アンゴラ、カルタヘナ←カルタゴ?)に倣ってポルトガルの典型的要塞として形作りました。
(実際作ったのは日本の職人さんと、思われますが…謎です)

それは城壁のなかに、塔+倉庫+教会があると言うつくりです。

長崎にはその名残の石垣や堀の跡があります。

各植民地も半島やデルタ地帯などで、長崎の地形と共通点があります。

その長崎港は世界でも珍しい良港で、はじめは平戸にポルトガル人達も居ましたが(海流的に平戸は南から到着しやすい)、
最終的には長崎へ移ります。

なぜポルトガル人達が来たのかと言うと、対イスラム戦略で
ローマ教皇が世界を半分に分けて「スペインは西、ポルトガルは東へ布教せよ」となったからだそうです。(トルデシリャス条約による)

布教と香辛料貿易はセットで、その各拠点がマカオなどの植民地です。
その最果てが長崎でした。
(絶対に西にポルトガル人が行かなかったと言うわけではありません。)

石垣の石は風頭山(亀山社中跡があります)や立山(長崎奉行所跡に長崎歴史文化博物館があります)から採ったと言われています。

石垣(要塞)で囲まれた街は日本では長崎だけ!だそうですよ!
進撃の巨人みたい爆笑
ウォールナガサキ(笑)
と言っても今はもちろん普通の街です(^^)

ただ、日本の支配者(秀吉や徳川三代)の対応が違っていたら、他の植民地みたいに長崎もポルトガルの植民地だった可能性もあります。

これは幕末にもそう言うピンチが訪れましたね~(^^;



↑その城壁から大音寺坂(天満坂)を下から見上げた所。
この坂の右手に昔大音寺が創建されました。

ちなみに大音寺は長崎五ヶ寺でしたね(^-^ゞ
場所は今は鍛冶屋町へ移転しております。
↑そんな大音寺坂の途中には「正面」と彫られた石が。
これは坂上天満宮の元の社殿の正面を表すそうです。

原爆で焼失したのでこのちらの「正面」から、現在の賑町の「大音寺坂の下」へ移転したそうです。

社名は焼失前のまま、坂の下へ移っても「さかのうえ」天満宮です(^^)

↑大音寺坂の途中にある石碑。

慈善施設の跡地です。

コンフラソア デ ミゼリコルディア(慈悲の兄弟会と訳すそうです)の慈善施設の跡地です。
1583年に、大坂堺の金細工職人ジュスティーノ夫妻(日本人)を中心に創立されました。

ハンセン病病院
老人ホーム
孤児院などが営まれました。

江戸時代に入り禁教令が出た後も、打ち壊しを免れましたが(病人などがいるので)、1619年には破壊されました。

その跡に先程の大音寺ができ、大音寺の移転後に坂上天満宮ができました(その後天満宮は原爆で焼失により現在地へ移転)。

さらに大音寺坂には、あの忠臣蔵の武士達も討入りの参考にしたといわれる「深堀騒動(長崎喧嘩)」の発端の地でもありますが、長くなるのでまた別の機会にご紹介出来ればと思います…ニコニコ