大村公園(長崎県大村市)へ足を伸ばしました。
大村市は空港でお世話になっていましたが、なかなか観光をする機会がなかったので

大村市は江戸時代は大村藩でした。
大村純忠(ドン・バルトロメオ)は日本初のキリシタン大名で有名。
その息子の初代藩主の大村喜前(よしあき。ドン・サンチョ)は棄教し、日蓮宗に帰依しました。
明治期少し大村県でした。

↑大村公園です

池にはカメがいました

想像していたより、庭園風。

↑ケンロクエンキクザクラ

(兼六園菊桜、金沢市の兼六園由来だそうです。)
他にも桜がありまして、もう葉桜でしたが
オオムラザクラ
クシマザクラ
などがありました。

↑藤もみごと

藤は見頃でした!

↑県指定の天然記念物「玖島崎樹叢」があったり。

↑大村氏一族のお屋敷や藩校があったとのことです。

↑なるほど

碑というものは石へんなだけあって、もちろん石製なんですが。
何百年か先まで残るし、そうなると文字が解読不能になります。
昔の石製品(石碑や鳥居)に対して思うのは、文字を深く彫って欲しかったと言う事。
でも欠けやすそうですね

途中で彫り直し…して欲しい。
そうすると価値が下がるのかな?
今はなんと彫ったか他に記録してるでしょうけど。

↑そして大村神社もありました!

一の鳥居です。
玖島城の跡地に当たります。
なので大村公園も大名庭園の様相を呈しているとのこと。
見えにくいのですが、鳥居のくさびが完全に飾りでした。
しかも左側は内側のみにくさび。

↑この石燈籠と

↑この石燈籠には右から
村松村
長浦村
亀岳村
と彫られています。
この三村は現大村市ではなく、
村松村と長浦村は現長崎市。
亀岳村は現西海市です。
いずれも大村湾の対岸に位置します。
しかし江戸時代は大村藩領で、「島」(実際は半島で陸続きですが)と呼ばれていたそうです。
大村で長崎市を感じられて嬉しく思いました

どの地域へ行っても「長崎との繋りはないか」が気になります。
ちなみにポルトガル船来港当時(1571ころ)の長崎の町には、大村からの移住者の町「大村町」がありましたよ


↑2の鳥居は、どうあがいても逆光でした!(>д<*)

↑2の鳥居付近にはこのような石碑。

↑なんとかこんな感じで2の鳥居を撮影。
笠木や貫に継ぎ目があってテンションがジワジワUP。

↑裏からも。
柱にも継ぎ目が

もういいの、肥前鳥居じゃなくても!
継ぎ目の明神鳥居も大好きになりました


↑三の鳥居。大きめの鳥居が続きます。

↑三の鳥居の変額。見えにくくてすみません。(>д<*)
コンクリート製でした。


↑玖島城址かぁ…。
お殿様がお住まいだった所に入れるなんてうれしい


↑立派な石垣に挟まれ4の鳥居。

↑桂小五郎の剣の師匠の息子、斉藤歓之助さんの石碑。
江戸から大村に神道無念流の指南役として招かれたそうです。
神道無念流は実践に強いとのこと。
私も子供のころ剣道を習いましたが、小手の稽古で(よけずに必ず受ける稽古)毎回内出血するので耐えかねてやめてしまいました

ヒヨワ。

↑5の鳥居。

↑5の鳥居は笠木と柱に継ぎ目が確認出来ます


↑うん、この年の台風19号は酷かった!
前も書きましたね。

↑門柱の様です。
しめ縄がないので普通の門柱でしょうか。

↑門柱を進むと地面に石材が埋められています。
この上を歩いてはいけないような気が?(大事にしたくて)

↑御神木と思われるマキノキ。夫婦の体を成していますが左には切り株。鳥居を破壊したマキノキかな?
葉で手裏剣作れるんですよね。マキノキって。あとこけしのような実を食べたり。
もちろん御神木ではいたしておりませんよ!
これを飛ばして遊ぶために袋いっぱい集めました。
それほどポイ捨てする人が多かったんですね。
しかし集めるのに夢中になり、集めたものを飛ばすのがもったいなくて、そのうち飽きて家で捨てました。
ゴミ拾いしてただけか…。内心ほめとこう。
(その後私はプルタブを先に缶の中に入れて飲んでいました。飲み口から出てくることは無かったので。)
大村神社は広くてとてもたくさんの見所がありましたので続きます
