重量拡散装置、ピラミッドの「王の間」上部にある、これって本当にそうなんでしょうか? | 和のブログ

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今まで誰かに話そうという気にはなりませんでしたが、息子の死をきっかけに、ブログという手段で誰かに読んでもらうのもいいかと思い、はじめてみます。

 ピラミッドの中心部、に存在する一番重要と思われる「王の間」

 この空間が、いかにピラミッドの中央に所在するかを図で示したいと思います。

 

 大体、こんな感じなのですが、紺の点線書きの部分は盗掘の跡で、現在はここから立ち入っているようです。

 一番中央にある三角屋根のような部分、ここが有名な王の間になります、その上部にある三角屋根、これが重量拡散装置と呼ばれ、真下にある王の間に重量が直接かからないように重さを分散している、というのが定説です。

 定説と書いたのは、私はそれが理由ではないと考えているからです。

 

 私がなぜ、この重量拡散装置を別の理由と考えたか、と言えば、そこへ至る大通廊の構造が、あまりにもおかしいからです。

 前回、あれだけの重量の床や壁が、一切歪むことなく4500年保持し続けていることが凄いと言いましたが、もしこれが墳墓であれば、ここまで綺麗に移築する必要は無かったのではないか、と思うのです。 

 そして、意味もなく大通廊をこの形状にするのか?、という疑問が残ります。

 たしかに重量を拡散する必要はあったことは間違いありません、しかし、それにしても、あまりに精巧に出来過ぎています。

 それは、ピラミッド下部にある地下室を見ても解ると思います。

 ここはとても同じ人が作ったとは思えないほど、精度の低い作りになっています。

 定説では、ここがだめだったので、上部に王の間を作ったのでは、と言われていますが、これだけ計算されつくしたピラミッドにあって、この地下の計画性の無さは、どうも気になります。

 そして、この地下が、一番最初に掘られ、ここが固すぎて掘れないから、ピラミッドの中央に王の間を作ったと言われています。

 、、、本当でしょうか? 

 実際、他のピラミッドは地域を問わず、そのような作りにすることが多いです。

 しかし、これだけの人力を贅沢に使った一大公共事業に、「固い」を理由に地下を諦めるとは考えにくいのです。

 なんなら、もっと折れてもいいような部分が山ほどあります。

 そして、この大通廊を見てしまうと、どうしてもあれが思い浮かんでしまうのです。

 そうですね、失われた出雲大社、近年になって、太古に本当に記述通りの大社があったことが証明されました。

 しかし、ピラミッドとの年代が合わないんですよね。

 ピラミッドは4500年前、出雲大社は古くても2000年程度、さすがに無理があります。

 なので、普通は「ピラミッドの内部構造を模して、出雲大社を建てた」と考えるのが正しい時間軸の考え方なのですが、これは不可能と言えます、何故か?

 

 、、、そりゃそうですよね、ピラミッド内部は盗掘口があるとは言え、その構造は密閉された状態で一般的には知られていないわけですから。

 そうすると、共通の知識による建造という考え方もありますが、、、、、

 実は、この出雲大社の想像図が出て来るずっと前から、それこそ中学生の頃から、私がこの部分、これに似ているな、と感じていたのが、これです ↓

 、、、似てませんか?、私は前からそっくりだと思ってました。

 特に、空中にわざわざ屋根を浮かせているところが、特にです。

 ドーム状の初代国技館が出来たのは戦前ですから、屋根が出来た時点でこの飾りの屋根は要りませんよね。

 

 、、、つまり、この屋根を付けた理由と、ピラミッドの重量拡散装置と思われている構造物は、出所が同じではないか、という事なのです。

 それに、相撲自体が、古代エジプトでも行われていたのですから、なお更なのです。

 

 つまり、これらは、正確にこの形状でないと「機能」を発揮できない何か、が答えになるのです。