「竜は、実在の動物ではなく、想像上の動物である」、と言われる。ここに言う「実在」という言葉は、想像上のもの・架空のものとの対比において使われている。これが、「実在」という言葉の、日常用語としての使われ方である。

 このように言うときには、「竜は、客観的実在の動物ではなく」とか、「竜は、客観的に実在する動物ではなく」とかとは言わない。こういうように言われると、哲学をちょっとでもかじったことのある人であれば、アレッとなる。竜は、現に絵に描かれており、伝説上の物語に登場してくるのであって、そのようなものとして、「竜」というように言語的に表現されるものは、客観的に実在するじゃないか、竜の絵は客観的実在じゃないか、と言いたい気持ちになるからである。

 こうなるのは、「竜は、客観的実在の動物ではなく」というように言えば、ここでつかわれている「実在」という言葉は、「客観的実在」(外的世界=人間の意識の外の世界に存在するもの)という哲学的概念をあらわす言語体になっているからである。それは、日常用語的意味とは異なる意味をもっているのである。

 では、笹山登美子の言う「仮象実在」の「実在」はどうか。

 彼女は次のように言った。

 「民族は非存在ではない」。「民族的対立とは、論理的に言えば、階級分裂という本質的矛盾が・現実的な諸条件のもとで現れでているものであって、仮象実在(シャイン)として存在しているのだ。」と。

 「非存在」と対比し、「仮象実在として存在している」というように「実在」と「存在」とをかさねて念押し的に言えば、ここでつかわれている「仮象実在」の「実在」という言葉は、「客観的実在」という哲学的概念をあらわすものである、という意味をもってくるのである。そうすると、笹山登美子は、「民族」や「民族的対立」という、自分が自分の頭のなかでこしらえあげた概念を、客観的世界に存在する客観的実在として実在化しているじゃないか、ということになるのである。

 また、「竜は、実在している動物ではない」と言うけれども、「竜は、存在している動物ではない」と言うだろうか。言わないだろう。絵のなかに存在しているじゃないか、となるからである。こう考えると、笹山登美子が、文の最後を「存在しているのだ」で締めくくっているのが意味深である。民族は、彼女の観念のなかに存在しているからである。彼女にとっては、民族は自分の心のなかに、自分の心の奥深くに、存在しているからである。

 こういうことに思いをはせるのもいいのではないだろうか。

 

 

 

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