わが仲間から、黒田寛一『賃金論入門』(こぶし書房)の次の部分に「仮象実在」という用語がでてくる、という連絡があった。

 

 「そして、生産諸手段と生きた労働との、不変資本と可変資本との交互作用による生産の実現結果(これは商品としての諸生産物の生産としてあらわれ、生産された諸商品の価値実現は流通過程においておこなわれ、そして流通過程に媒介された生産過程が再生産過程である)、この生産の実現結果において、前提としての労働市場における契約にもとづいて賃金は支払われる。したがって賃金は現実には後払いなのである。ほかでもなく、この後払いという形式のゆえに、賃金は「労働の報酬」とか「労働の対価」とかという形式をとる。けれども、賃金は労働にたいする報酬ではなく、本質上は前提としての労働市場において支払われる労働力の価値、その貨幣的表現にほかならない。いいかえれば、賃金が「労働の対価」あるいは「労働の価格」という形態をとるのだとはいえ、これは仮象にすぎないのである。〔「仮象」とは嘘とか仮構とか幻とかではなく、それ自体の本質をもった実在性であり、仮象実在なのであって、現象の一つの形態をなす。〕」(黒田寛一著『賃金論入門』19~20頁)

 

 また、私のブログの読者の人は、この『賃金論入門』では「仮象形態」という用語がふんだんに使われている、ということを教えてくれた。

 

 ここで、次のことを考えたほうがいいのではないかと思う。

 それは、上に引用されている部分をかつて読んだときに、何ら問題性を感じなかったとしても問題はないのではないか、ということである。

 ここでは、「仮象実在」ということは、「嘘とか仮構とか幻とか」との対比において言われており、「それ自体の本質をもった実在性」であり、「現象の一つの形態」をなす、というように存在論的に規定されているからである。仮象というのは、それ自体の本質をそれの根拠としてもち、この本質が現象した・この現象の一つの形態なのだな、というように理解することができるからである。

 われわれがこの「仮象実在」という用語に、アレッという感を抱いたのは、笹山登美子がこの用語を巫女の一つ覚えのようにふりまわしたからなのである。

 彼女は次のように言った。

 「民族は非存在ではない」。「民族的対立とは、論理的に言えば、階級分裂という本質的矛盾が・現実的な諸条件のもとで現れでているものであって、仮象実在(シャイン)として存在しているのだ。」と。

 これにたいして、われわれは、こう言うのなら、階級分裂という本質的矛盾が・どういう現実的な諸条件のもとで・どのようにして・民族的対立として現れでているのか、展開してみろ、とやったわけである。

 さらに、「民族的対立とは、論理的に言えば、階級分裂という本質的矛盾が・現実的な諸条件のもとで現れでているものである」というのは存在論的把握である。そんなものが「仮象実在として存在しているのだ」と言えば、われわれが把握した内容が、現実世界において石ころのようにころがっている、という話になるじゃないか。「民族的対立」という・自分が自分の頭のなかでこしらえた概念が、客観的世界において客観的実在として存在している、という話になるじゃないか。これはスターリニストと同じダダモノ主義だ。そう言われるのが嫌なら、観念論そのものだ、とやったのである。

 それで、そうすると「仮象実在」というように「仮象」に「実在」をくっつけるのはおかしいんじゃないか、となってきたのである。

 こういうことが問題になるのであって、笹山登美子という名の笹大和巫女が登場してくれなければ、われわれは「仮象実在」という用語に疑問をもたなかったのである。

 こういうように考えたほうがいい、と私は思う。

 

 「仮象形態」という用語にまで踏みこむのはやめよう。