黒田寛一が書いた『革マル主義述語集』(こぶし書房、1998年刊)という本に「仮象」という項がある。『革マル派』中央官僚の御用学者・笹山登美子は、自分たちの民族主義を基礎づけるために、これを勉強して、「民族」や「民族的対立」は「仮象実在」だ、とする原稿を書いたのだと思われる。黒田の説明文には、「仮象」は「……存在のひとつのあり方である」、という論述があるのであるが、これを見ると、笹山が「仮象実在として存在しているのだ」という妻のかかあ的な表現をしたのもうなずけるのである。仮象実在というものを存在そのものとして捉えるのではなく、存在のあり方として捉えるならば、「仮象実在」のあとに「として存在しているのだ」とくっつけて表現することが可能になるからである。

 黒田は、「それ〔仮象〕は、本質的なものが現象するさいにとる存在のひとつのあり方である」、と書いているのであるが、これは、われわれが物質的対象・すなわち・実在的なものを把握した内容の論述であり、物質的なもの=実在的なものを仮象というように概念的に規定した・この仮象という概念にかんする存在論的展開である。このようなものである「仮象」という用語に「実在」という用語をくっつけて「仮象実在」という概念を創造することは可能なのであろうか。

 私には、この根本的な疑問がわきおこってきた。

 「仮象」にかんする黒田の説明の全文は次のようになっている。

 「ドイツ語のScheinは日本語では「仮象」と訳される。けれども、それは、幻影のようなものでも、誤った感覚表象でもない。それは、本質的なものが現象するさいにとる存在のひとつのあり方である。この意味において、この述語は「仮象実在」とも訳されている。仮象の実在性がとらえられていさえするならば、わざわざ仮象実在と訳す必要はない。——例証をあげれば、水の入ったコップの中に細い棒をいれたばあい、この棒は光の作用で屈折して曲がったように見えるのであるが、このように見えることが現象のひとつとしての仮象なのである。

 ヘーゲルの本質論においては、現象形態はExistenzまたはWirklichkeitである。そして、現象は本質の現れであり、本質は諸現象の本質である。仮象はひとつの現象形態である。

 資本制経済のもとでは、直接的生産過程を措定する前提としての商品市場における、労働力商品の売り手とその買い手との関係は、等価交換の関係であり、「自由・平等」の関係である。けれども、たえざる生産過程の実現をつうじて、この「自由・平等」の関係が実はScheinにすぎない、ということが暴露される。——これが、『資本論』にみられるScheinというカテゴリーのマルクス的使い方の一典型である。」(60頁)

 ここで、黒田は、「仮象実在」という表現それ自体は否定しないで肯定しているのである。そうすると、ここに言う「仮象実在」の「実在」とは何なのかということが問題となる。また、「仮象の実在性」と言われるときの「実在性」というのもそうである。

 例証として挙げられている棒の話を考えるならば、これは、水に入れられた棒と光と人間の網膜という三者の関係において、網膜に現に・曲がった棒の像がつくられ、これを人間が「棒が曲がって見える」と意識するものである。これにたいして、「幻影のようなもの」というように「のようなもの」がつけられているのであるが幻影を考えるならば、それは、何らかのことがらを契機として人間の意識のなかに過去のいろいろな記憶などが入り混じって想起され何らかの像が形成されるものであり、また「誤った感覚表象」としては錯覚を考えるならば、それは、人間が感覚する対象と人間の脳の働き方との関係において、人間が対象を誤って意識するというものであって、幻影も錯覚も人間の心理的現象である。

 前者の棒の話と後者の幻影や錯覚の話との違いは、現に網膜につくられている像を物質的基礎として人間が対象をどのように意識するのかという問題と、人間の意識作用において発生する心理現象の問題との違いなのであって、人間の意識に形成されたものが実在なのか否か、あるいはそれが実在性をもつのか否か、ということではないのである。人間の意識に形成されたものが実在なのか否かなどと言えば、人間の意識に形成されたのもの・すなわち・人間の意識内容を実在化していることになるのである。

 唯物論の立場にたつのであるかぎり、「実在」というカテゴリーをもちだすのであるならば、概念と実在という問題を考察しなければならない。すなわち、物質的対象を規定する概念と、概念によって規定されるところの物質的なもの=実在的なものとを区別しなければならない、ということが、それである。これは、黒田寛一その人がつとに強調していたことであった。だが、仮象についての説明の論述にはこのことが貫徹されていないのである。

 このことは、哲学的概念としての仮象にかんする通俗的な説明とそのひっくりかえし方と関係するのではないだろうか。

 インターネット上に載っている辞書を見ると、仮象について次のように書いてあった。

 「実在的対象を反映しているように見えながら、対応すべき客観的実在性のない、単なる主観的な形象。仮の形。偽りの姿。」と。

 「本質は現象する」という立場にたつヘーゲルの「仮象」はこのようなものではない。そこで上記の展開を直接的にひっくりかえすならば、仮象は実在性をもつのであり、仮象の実在性を捉えなければならない、仮象は本質のひとつの現象形態である、ということになるのである。私は、「仮象実在」という用語を誰がつくったのかは知らない。

 これは、たとえヘーゲルの「仮象」の説明になりえたとしても、マルクスのそれにはなりえない。

 黒田はヘーゲルを紹介しているのであるが、このヘーゲルをどのように唯物論的にひっくりかえすべきなのか、マルクスはどのようにひっくりかえしたのか、ということの展開はないのである。

 ヘーゲルは、『大論理学』(武市健人訳『大論理学 中巻』岩波書店、1960年刊)において次のように展開している。

 「有は仮象である。」「仮象は、その空無性を離れては、云いかえると本質を離れては存在しない。仮象は否定的なものとして措定されているところの否定的なものである。」(12頁)この仮象は、したがって本質は次のように自己展開をとげる。「仮象は本質そのものである。但しそれは、単に本質の契機にすぎないような規定性の中にあるところの本質である。こうして本質は、自己の自己自身の中における映現である。」(16頁)「しかも本質は、この仮象をむしろ自己における無限の運動として自己自身の中に含んでいる」(17頁)。

 このような展開は、主観的観念論の立場にたつカントの「仮象」をひっくりかえしたものである。

 カントは、人間は物自体を認識することはできない、としたのである。これは、人間にあたえられる現象は、すでに人間の主観と物自体とによって構成されたものなのであり、両者を切り離すことはできない、としたことにもとづくのである。この物自体とは神である。したがって、神が世界を創造した、というのは、認識しえないことであるのだからして、それは仮象である、としたのである。このカントの「仮象」を、ヘーゲルは、絶対理念の直接態をなす有は自己展開して、本質の否定的な直接性をなす仮象をうみだしたのだ、というようにひっくりかえしたのである。このばあいに、ヘーゲルにあっては、この絶対理念とは神であり、絶対理念の直接態をなす有の存在過程は、同時にそれの自覚過程なのである。このような絶対理念たる神が実在なのである。したがって、ヘーゲルにあっては、仮象は実在なのであり、実在性をもつのである。

 マルクスは、唯物論の立場にたって、このヘーゲルの「仮象」をその根底からひっくりかえしたのである。したがって、マルクスの実践的唯物論をわがものとするために努力するわれわれは、マルクスの「Schein」の訳語として「仮象実在」という用語を使うことはできないのである。

 ヘーゲルをもちだすのであるかぎり、あるいは「実在」というカテゴリーをもちだすのであるかぎり、こういうことを明らかにすることが必要である。ところが、黒田はこういう考察をおこなっていないのである。

 わが御用学者にもどろう。

 観念論においては、実在とは観念であり、神である。わが笹大和巫女たる笹山登美子が「仮象実在」というかたちで「実在」を強調したとしても、それでは唯物論の立場にたったことには決してならないのである。「本質が現れでているものが、仮象実在として存在しているのだ」と言うのでは、その実在は、実践=認識主体たるわれわれのいない世界で自存しているものなのであり、それは観念であり神なのである。わが巫女は、自分が観念世界で希求したところのものをその観念のなかで現れださせて、「民族」だの「民族的対立」だのという観念的被造物を創造したにすぎないのである。

 

 

 

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