「革マル派」中央官僚は、ウクライナでの戦争が勃発した瞬間に、反ロシアのもとに自分たちが依存すべき勢力はないか、と世界を眺めまわし、憎っくきロシアと戦う勢力として西側帝国主義勢力を見いだしたのだ、といえる。そして、これを熱烈に支持したのだ、と。

 この感覚と思惟の働かせ方は、かつて「植民地革命無条件擁護」を叫んだ俗流トロツキスト太田竜(栗原登一)の思考法と同じである。

 太田竜が第四インターナショナル第五回大会から帰ってきて黒田寛一と論争した1958年には、民族解放闘争・植民地革命がアジア・アフリカ諸国でたたかわれており、彼が「無条件に擁護」するものがあった。ところが、中央官僚が世界を眺めまわした2022年には、被支配階級が展開している民族解放闘争というようなものは存在しなかった。そこで、彼らは、国家として戦争を遂行しているウクライナとこれを支援している西側帝国主義諸国家に、自分たちが依存し無条件に支持すべきものの姿を見いだしたのである。そして、そのおのれを正当化するために、マルクス主義を公然と否定して、階級よりも民族を優先する和辻哲郎と高島善哉にのりうつり、こののりうつりというかたちで天皇制イデオロギーをみずからと自分たちの諸言動に貫徹したのである。

 ここにつらぬかれているものは、黒田寛一の内在的超克の論理の否定であり、それの、既存のものへの依存への歪曲である。このことをつきだすと同時に、黒田のその論理そのものにはらまれて問題性はないのか、ということを省察する必要がある、と私は考える。なぜなら、黒田その人が、2000年代初頭に、ムスリムを、自分たちが依存すべき対象として選んだのだ、といわなければならないからである。

 黒田寛一がみずからの「内在的超克の論理」を革命理論に貫徹し具体化したところの「既成の運動ののりこえの論理」を今日的に省察すべきである、と私は考えるのである。

 われわれの先輩たちが米ソ核実験反対闘争を展開したときには、彼らは、既成の原水爆禁止運動に内在していた。われわれが「のりこえの論理」をめぐって内部論議をくりひろげたベトナム反戦闘争のときにも、われわれは既成の運動に内在していた。われわれが総評の労働運動を左翼的にのりこえていくための指針および諸活動を解明するために苦闘したときにも、われわれは総評の運動に内在していた。だが、労働運動の帝国主義的再編が完成したとき、国家権力とブルジョアジーとその手先によってプロレタリア階級闘争は壊滅させられ、左翼陣営に属するといえるような既成の運動はなくなった。

 いまから捉えかえすならば、このとき、黒田は、われわれの外側に、われわれがそこには内在していないところの、われわれが期待すべき運動を探したのではないか、と私は思うのである。そして、見いだしたのがムスリムの闘いではないか、と。

 だが、われわれはこの場所の外にいるのではない。われわれはこの現実そのものに内在しているのである。このとき、われわれは黒田とともに、この現実に内在しているわれわれがこの現実をのりこえ切り拓いていく論理を解明すべきであった、と私は今日、考えるのである。それは、国家権力と独占ブルジョアジーと「連合」指導部によって抑えこまれている「連合」傘下の労働組合において、そこに内在しているわれわれが闘いを創造していく論理であり、労働組合のない職場において、そこに内在しているわれわれが闘いを創造していく論理である。それは「創造の論理」である。「現実そのものののりこえの論理」、それは「創造の論理」でなければならない。

 かつて1963年冒頭に、倉川篤である松崎明は、ブクロ官僚どもに反対して書いた。

 「戦闘的労働運動は、防衛すべきものではなく、まさに、主体的に作られるべきものである」、と。(『松崎明と黒田寛一、その挫折の深層』155頁、161頁、参照)

 これである。ここにつらぬかれているのが「創造の論理」である。

 動労は、国労から右翼的に分裂して結成された機労を前身としており、国鉄当局によって抑えこまれていた。松崎明はその組合員としてたたかい、仲間たちをつくり、青年部を結成するとともに、尾久支部の委員長となって、反合理化闘争を創造してきたのである。

 この動労の反合理化闘争にかんして、現に展開されている運動を「既成の運動」と規定してそれの「のりこえの論理」を展開するならば、それは、松崎明と仲間たちが創造している運動をのりこえるということになってしまうのである。動労の現に展開されている運動にかんしては、これを、「われわれ(O)は既成の労働運動(P)に対決し、これをのりこえるために」というように論じるときの「既成の労働運動(P)」と規定することはできないのである。この問題については、この論述の適用限界をなすのである。この限界を突破するためには、動労においてわれわれが組合員あるいは組合役員としてうちだす指針およびそれにのっとってくりひろげる諸活動を、組織現実論と同時に労働運動論を適用して解明しなければならないのである。「われわれは組合員としてあるいは組合役員として」という規定を適用するだけではだめなのである。われわれが対決する対象を「既成の労働運動」と規定することはできないからである。われわれは、「われわれが創造した労働運動を、われわれがその内側からのりこえていく論理」を解明しなければならないのである。

 これと同様に、現時点において、国家権力と独占ブルジョアジーと「連合」指導部によって抑えこまれている労働組合において、われわれが組合の下部組織から創造している運動や、組合のない職場でわれわれが創造している闘いを、「既成の運動」と規定することはできないのである。また、われわれが労働組合員として、あるいは組合のない職場で、闘いを開始する以前の・完全に抑えこまれている状態を想定し、これを「既成の運動」と規定するのも観念的なのである。

 われわれはこの場で闘いを創造するのだ、という意欲と発条を喪失したばあいには、自分たちがのっかるのに都合のいい勢力を探し求めることになるのである。

 

 

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